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子供の視点に立てば

ここ数日雨風が強く、荒れた天気が続いています。豪雨や川の氾濫が全国各地で起こり、自然の脅威はコロナだけにとどまりませんが、これをこれまでの人間社会への警笛と捉える人はやはり少数派なのでしょうか。

 

保育が再開して1ヶ月とちょっと。
世間を見渡せば、「新しい生活様式」の中で、窮屈な思いをしている子供たちがたくさんいます。

「窮屈」を通り越して、もはや「当たり前」になっている子供たちもたくさんいそうですね。子供は従順だから、と笑ってばかりもいられません。


幼稚園、保育園などはまだいいほうなのかもしれませんが、学校、社会における「新しい生活様式」に基づいた様々なルールは、柔軟性に欠けるのが気になります。

 

距離が取れる状況、昼休みの屋外、暑いさなかでのマスク着用だったり、

給食時には配膳の仕方も盛り付けルールもきっちり決められていて、全員無言で前向き給食とか。

それを「新しい給食の流れ」なんてご立派な名前がつけられた手紙が配られたり。

なんでもかんでも「新しい」ってついてればいいわけじゃありません。

 

食事中にしゃべったり、笑っちゃいけないからランチタイムの放送も流れない、

掃除を先生が全部やるとか、、、

 

試行錯誤の中、決められたことを守る先生も大変なご苦労だと思いますし、きっと不本意ながら子供たちにそのように伝えている先生もいることでしょう。

給食中は先生も子供たちと同様、黒板のほうを向いて食べるのだそうで、そんな話を聞いていたら何だか悲しくなってきました。

いつか先生たちの心身にも限界が来るのではないかと心配になります。

 

小3の娘にそんな学校の様子を聞く中で、はっとした言葉がありました。

それは、コロナのことで色んなことが変わって、約束事も増えてるけど、そのことを、

「みんなが今どう思っているか、感じているかがわからない」

「私はマスクを外したくなる時もあるけど、みんなはどう思っているのかわからないから怖い」というのです。

 

本来、子供たちが主体性をもって学び、対話をし、作っていく場で、子供たち自身が、疑問に思っても、学校の在り方、自分の在り方、他人の在り方を伝え合い、受けとめ合うということがなされていない。

そのこと自体が、子供の中に不安や混乱を生んでいるということです。

子供には思いがあるし、気づいているけど、子供たちの心を繋ぐ人がいない。

だから、子供たちは相手の心が見えないし、どうしたらいいかがわからない。

学習も主体的、対話的学びはどこへやら。一昔前の一律、一斉学習に逆戻り。

何のための学びの場かと考えてしまいます。

 

そして、何より、「新しい生活様式」は、わざわざ「新しい」と文言が付くわりに、全くワクワク感を感じさせないのも困りものです。
「新しい」という言葉は、これから始まる楽しみでワクワクすることを連想させるのに、何だかその中身はそうあらねばならない、という決まり、にしか聞こえない。がっかり感が否めません。

「新しい」の言葉のイメージも意味合いもこれから変わっていくかもしれませんね。

 

さて、一方でここ1ヶ月のさとのたねの子供たちと言えば、以前とあまり変わりなく、元気にいつも通り過ごしています。

最近は、なんだかんだいって、やっぱり野外保育に勝るものなしと思えてきました。

(気象変動の大きい今は、毎回柔軟に手立てを考えなきゃならないので大変ですけどね)

 

ポイントは、野外、少人数、互いの信頼感。

囲いも、部屋もないので換気もいらなければ、共用のおもちゃやトイレ、ロッカーももないのでシュッシュとふりかける消毒もいりません。

今の時期、熱中症のリスクを高めるマスクは、大人は必要な時に着用できる準備をしておけばいいんです。

 

日頃から土にまみれて遊んでいるので腸内環境を豊かにしてくれる自然の微生物や常在菌もばっちりです。

さとのたねに入って風邪を引きにくくなったという子はこれまでもたくさんいます。

 

食事前に手洗いしたり、まだ手洗いが難しい1,2歳児たちは、おしぼりを大人が多めに持っていて端と端で拭けばいいですし、お弁当も外なので、ゆったりいつも通りの食事です。

これまでは菌をもらい合うことが前提でしたので、分け合って食べること、コップの共用もありましたが、今はコップの持参をし、食べ残しは持ち帰り。

そのくらいです。それはこれまで別の感染症が流行った時も同じでした。

 

子供の育ちはそっと見守るのが基本なので、やたらあれこれ近くでやってあげなくても大丈夫。

わずかな手助けで、大人はいくらでも”はやり”のソーシャルデイスタンスは取れます。

人数も各クラス10人程度。

箱にぎゅーぎゅーに詰め込まれるなんてこともありません。

流行ってきたなと思ったらクラスを一時的に分ければいいことです。

 

ただ。子供は群れて遊ぶものですし、年齢的に多くの言葉をまだ必要としない子供たちから、体を通したコミュニケーションを奪っては心は健やかに育ちません。

自分の根っこを耕して、自分の気持ちも相手の気持ちも大事にできるようになるには、密なコミュニケーションはやはりこの時期に必須。

 

そこは確かにリスクです。でもそれより、野外保育をするうえで気を付けなければいけないことは山ほどあります。コロナ対策ばかりに目を向けていては足元をすくわれますからね。

 

そのことをよく理解した大人たちが互いの信頼感を寄せ合って成り立っている会なので何かあったとしても、これまで通り心寄せあうことには変わらないと思えています。

家庭で事情が異なることを考慮して、参加自体も各家庭で決めてもらうようにしています。

 

自分で考える、自分で引き受ける、という機会を奪っては、信頼も何もないからです。

どんなふうに感じていてもいい。

そこからしか自分への向き合いも、自分を律することも、人との育ち合いも生まれませんから。

 

子供たちはそんな大人たちの信頼感に包まれながら、この1ヶ月

すくすくと、時にはちゃめちゃに育っています。

ここにいると大人も子供と一緒についわらってしまうこと、ついムッとしてしまうこと、つい泣いてしまうことがたくさんあります。

そういう時、ああ生きてる、生きててよかったって思います。

 

コロナのまっただ中、きっと子供たちがこの先を示してくれる、そんな風に漠然と思っていました。

子供を見続けていたら見えてくるものがある、やっぱりその通りでした。

守ってあげなければならない未熟な存在なんて見てないで、大人たちが見えてないものを子供たちは真っ直ぐ捉えています。

社会も学校も、大人がその視点に立てるかどうか、なのかもしれませんね。

 

代表 岸本 梓