今年から3年ぶりに1、2歳児クラス(たね組)を担当しています。
2012年に森のようちえんたねっ子(さとのたねの前身)は1歳児5名からスタートし、2013年から1、2歳児を対象に4年間。
その後3歳児クラス(さと組)ができ、「よつかいどう野外保育さとのたね」と名称も改めたわけですが、4年前までは、そもそも1、2歳児を担当していました。
3歳児クラスができてからも、さとのたねには月に何度か1~3歳児が一緒に過ごしたり、2、3歳児が一緒に過ごしたりする合同日というのがあるので、子供たちの様子は折々に垣間見てきたのですが、いや~たった1、2年違うだけでこうも違うかと久々に新鮮な感覚を取り戻しています。
今年は1歳児から入会していた2歳児のメンバーが多く、泣いて歩くのがやっとの1年を超えて、今や2歳児は、「僕の」「私の」バラエティーに富んだ自我が全開を迎えております(笑)
もうね、何もかもが一向に進まない。この一言につきます(笑)
時間の流れ方から始まり、あちこちで繰り広げられる名もなき遊びの数々、誰かが仲間を迎えに行ったかと思えば、寄り添ったまま戻ってこないこと多数。
そこから新たな遊びに発展していたり、座り込んでおしゃべり(というより、言葉はわずかでほぼ表情でのコミュニケーションなんですが)していたり。
やっともどってきたと思ったら、足元は裸足、、、
「靴はどこかなー?」というと、来た道のだいぶ先に落ちてるのが見えます。
時には、さらに後ろにいる誰かがその子の靴を拾ってくれるのだけど、今度は靴を持ってきてくれた子は自分のリュックを持っていない、、、そしてまた来た道を一緒に戻る、ということが散歩中、そこかしこで延々と繰り返されます。
知恵も付いてくるので、「リュックないねえ、靴ないねえ」とこちらが言っても、2歳にして右から左へ聞き流す、という常套手段を使うこともしばしば。
これは、誰かが持ってきてくれる、ということを関係性の中で得てきいる証拠。
もうここまできたら仲間を頼りにしてるってことです。
お母さんにもよくやるでしょ、頼りになる、と踏んでいるからです。
それと一緒です。
逆に届けたい、やってあげたい子もいます。
色んなことに気が回り、やってあげたい子もいれば、
今気分だからと、気持ちがのってお手伝いしたい子もいれば、
誰かがやってるのを見て真似したくてやってあげる子もいます。
その子のことが好きだからお世話したいという子もいます。
届ける、やってあげる、手伝うという行動は同じに見えて、心が動くタイミングも、理由も、実は一人一人違います。
それがその子自身の色で、その子の持つその時の感覚です。
子供同士、感覚や思い、目に見えるアプローチや裏側にある心が混ざり合ったり、離れたり、ぶつかったり、融和したり、を繰り返しながら自分を育てているのだと思います。
そう思うとおもしろいですよね。
子供の中には必ず、頑なな部分と流動的な部分とあります。
だから、目に見えるものだけで、この子はこうと決めないほうがいい。
同じように見えて、いつもそうとは限らないのです。
今見ているのはたった一つの点で、それがこの先ずっと変わらないかといえばそうでもない。
一方で、やり方やアプローチは変わっても芯の部分は変わらない、ということもあるでしょう。
焦点を当てたいのは、「行動」ではなく、「心」です。
芯の部分はその子だけがもつ「宝」だと私は思っています。
そして、誰しもが色は違えど「宝」をもっているとも思っています。
だから、芯(根)は、周囲の大人が蓋をしたり、無理に矯正したり、引っこ抜こうとしたり、腐らせないほうがいいです。
1、2歳の自我が芽生えだす、一番お母さんにとって子育てがきつい時こそが、実は芯の芽生えであり、大事にしてあげたい時期だったりします。
この時期こそ、「自分」は「自分」を、周囲への遠慮なしに一番貫き通せる時期かもしれません。
言い換えれば、まじりっけなしのその子の芯が、最も捉えやすい時期です。
一方で、行動に目的を持ち、効率というものを知り、周囲への遠慮を配慮と捉え、欲求のバランスをどうにかこうにか保とうとする私たち大人からしたら、非効率で、自己欲求満載なこの時期の子供は、理解しがたく、何ともしようがないのに何とかしようと試みて、怒って、疲れて、へとへとになってしまいますよね。
見ている、生きてる世界がまるで違うのですから。
一人で我が子といつも向かい合わせでやっていたら、ほとんどのお母さんがもううんざり、という感覚でしょうね。
私も子供は面白い、愛おしいと思いながらも、何度そう思ったかわかりません。
今、子供を理解できないなら、今、頑張って理解しようとしなくてもいいと私は思います。
子供は自分への正しい理解が欲しいのではなく、
自分の持って生まれた芯だけ見てくれて、そのまんまで大丈夫、
と「時々、心から」寄り添ってもらえれば十分なのだから。
あとは日常、お母さんがイライラしようがぷんぷんしようが子供は聞き流すなり、怒ってるから近づかないようにしたり、これはとばっちりだと思うなり、自分流で受け流すようになります。
芯を見つめるのは、色んな角度と距離感から。
1人でやるほうが無理があります。
子供が子供の中で色んな刺激を受けて育つように、人が人として育つには助けが必要です。
だから、信頼できる色んな人に手伝ってもらうほうがお母さんも楽です。子供も伸びやかに育ちます。
非効率も、無駄も、自己欲求も、1人じゃなくて分散して受け止めれば、笑いに変わります。心が軽くなります。
昨日も子供たちとお母さんたちと1日大笑い。幸せなことです。
そうやって、子供のもって生まれた「宝」だけは、守りたいものです。
代表 岸本 梓