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保育者は脇役

コロナコロナと言うけれど、4月5月の人々の受け止めとはだいぶ様相が違うように思いませんか?

重症者、死者数は極端に少ないものの、感染者は4月5月と変わりない感じです。なのに、人々の受け止めが極端に違います。

慣れなのか、あきらめなのか、共生への覚悟なのか、周りにつられてなのか、わからないものだなあと思います。

 

私自身がもともとこういう事態に対し、警戒心とリスクへの受けとめ、その先への見通しに時の落差がないので、正直、周りの初期の反応との違いに少々疲れることがあります。

 

そういう時は、そっと離れて、黙って時が過ぎるのを待ち、人々の変化を待つのですが、生きてきた中でそういう繰り返しが多いので、「ああまたか」とつい思いがち。

自分自身が思い込みに陥らないよう心を戒めます。

 

でも、それだけ人は想定外のことに出会った時に、一度はフリーズ(思考停止)して、再び体感を通じて自分を取り戻したり、折り合いをつけていく生き物なのかもしれませんね。

 

私は、どうにもこうにも直感寄りなので、なんか変!と思ったら、そこから突き詰めていく。リスクは抱き合わせで、描きたい未来を描いていく。そうしているうちに不思議と道が拓けていきます。

 

子供や多様性を孕む自然のそばにいるのも大きいかもしれません。

命に危機迫る場面での大人の判断は確かに必要ですが、人の心情、コミュニケーションの流れ、空気感に翻弄されがちな大人に対して、子供たちには心に従って生きることへの柔軟さがあります。

その生き様に私がきっと感化されている部分もありそうです。

 

自然は固定された環境ではありません。

常に移ろい、常に畏れを感じながらその場に居合わせます。

人の手ではどうにもならないことがある、ということが日常の感覚で、余分なものが削がれた先にあるのは、シンプルに、

「その中でどう生きるか」ということだけですから。

 

それにしても、なんやかんやで日常を回し始めた人たちが、今よりもっとコロナが身近になった時に、「やっぱり甘く見過ぎていた」「失敗だった」なんて言わないといいなとは思ってしまいます。

起こり得るリスクと対策を想定し、自分の心を保つ準備はしておいたほうがよさそうです。

余力があれば、心を遣うこともできます。

誰かを責めたり、避けることではなく、「大変だったね、何か手伝えることあるかな」と一歩踏み込んで寄り添うこともできるかもしれませんしね。

 

少し前に怒涛の日々を過ごしてきたお母さんたちと1学期の労いの会を終えました。そういうことも今は専ら外ですが、ほんとに色んなことを抱えて、駆け抜けて、分け合いながら、ここまで大事なことを共にしてきたお母さんたちです。心ほどける時間でした。

 

さとのたねにおいては、保育者って子供にとってもお母さんたちにとっても脇役だと思っています。

保育者は大事な根幹はブレずにもっているけれど、だからこそ人と人との関係が硬直しないように必要な場面で一歩下がって、見守って、見極めて、繋いだり、風を通したり。

子供もお母さんたちも、その力が最大限に引き出される時、それは一人一人が共通の思いを持ちつつも、自分を自分で展開しているときだと思うからです。

 

それで、というか、労いの会はそんなお母さんたちの傍らでそっとお邪魔させてもらってる、という感じでいつもいますので、私はそばで魚を調理していました(笑)

 

お母さんたちがお互いがお互いをより知る機会に、

お互いがお互いを労い合う時間に、

その空間に笑い声が聞こえるとああ嬉しいなって思います。

ありがたいな、幸せだなって思います。

 

何家族も集まっていれば、私たちが拾いきれなかったしんどさや見せない苦労もあったと思います。

私たちに察してもらおうとせず、自分で持ち帰り、自分で練ってを繰り返していた時間もあったでしょう。

保育者も、万能でないからこそ、不完全であるからこそ、隙間が生まれ、お母さん同士が補い合うようにそこにいてくれたこと、それがただただありがたいんです。

 

保育者という立場にいながら、共に作る、ということをこれほど実感できる場はないと思います。

 

でもそのためには、見つめ続けながらも、相手を信頼して、いつでも一旦引ける立ち位置にいる、ということが大事なのかもしれない、とお母さんたちを見ていて感じます。

 

そして、何より子供たちは、お母さんたちの一生懸命さと互いへの寄り添いを、きっと誰よりも肌で感じているでしょうね。

短くても濃い1学期の締めくくりまであと2日。

2学期に繋がる今と信じて、大事に過ごします。

 

さとのたね代表

岸本 梓