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夏の思い出&多様性を想う

早いものでもう8月の半ばを過ぎました。さとのたねは8月から夏休みに入っていますが、休みに入ると今度はキャンプの打ち合わせ、やりかけていた事務仕事やらお母さんたちとのオープントーク、保育外の細かな計画などの考え事で私の頭は、結構忙しかったように思います。

でも、一方で気持ちのほうが半分休みに入っているので、進まないこと進まないこと。

 

7月までは雨ばかりのお天気で、8月に入れば雨ばかりの毎日だったのが嘘のような猛暑続き。

人間界は、てんやわんやですが、世の中にはコントロールできないものが当たり前にあるということをそろそろ知ったほうがいいと思います。

 

話は変わって、昨日家族で川遊びに行きました。それで子供の頃のように飛び込みをしたり、川の流れに任せて流れてみたり、足の届かない場所を遊泳してみたりしたら、今日はやけに体が重い。あちこち痛みが出ています。

 

私は岐阜育ちのなのですが、夏休みのお盆前はいつも祖母宅から歩いて5分の川に出かけていました。

浮き輪なしで泳げるようになったのは3年生頃でしょうか。こちらの岸から向こう岸まで15メートルほど。流れがあるのでその流れを予測しながら泳がなくてはならず、また、向こう岸へ行けば行くほど水深は増します。

ゴーグルを付けて泳げば、アユやオイカワ、ウグイなど群れを成して泳ぐ魚が見え、自分も一緒に泳いでいるかのような感覚になったり、川の真ん中あたりへ行けばその深さから川の色が変化するのを感じ、底なし沼のようにも見えて一種の恐怖感を覚えたり。

楽しいという感覚と怖いという感覚が常に入り混じっています。

だから、今日はいける!今日は向こう岸まで行く!という心の中での自己決定が必要で、それを遊びの中で図りながら、今というタイミングで意を決して渡りきったような記憶があります。

 

向こう岸まで泳げるようになると今度は、潜るということがおもしろくてどこまで潜れるか試したくなりました。1メートル、2メートル、3メートル、4メートル、、、ああ苦しい!もうだめ!と川底から水面を見上げるとお日様の光がキラキラしていて、そこを川魚たちが行き交っています。

その川底からの光景が何度見ても幻想的で、こんな世界が水の中には広がっているんだなあ何てことに浸りながら飽きるまで堪能していました。

 

川に泳ぎに行くといっても、年に数回のことなので、大体母か父かが付き添ってくれていたのですが、おおらかなもので、父も母も河原に木陰を作って見学していただけで、私が溺れないように川下で待ち構えていたとかでもなく、いざというときの浮き輪だけそばに置いて見守ってくれていました。

母は心配性もあって昔から私がするアクロバティックなこと(鉄棒やジャングルジムのてっぺんに立つとか高所から飛び降りるとか)は大抵怖がっていましたが、その割に口うるさく止められた記憶もないので私にとっては自由さと恐怖心を存分に味わった川遊びでした。

もしかすると、潜ってはなかなか出てこない我が子をヒヤヒヤしながら見ていたかもしれません。

 

それで昨日の川遊びから色々と昔の川遊びを思い出していたら、ふと思ったのが、川は海ほどの開放感と安心感がない代わりに、常に身に迫る危険も感じながらの遊びなので子供にとってはチャレンジ精神をくすぐられるし、遊びの中にどこかしら自分の中にピンと張った糸みたいなのがあって、ここまでやったら危ないという危機意識を自分の中で育てていっているのかもしれないということでした。

そこを抱えながら見た景色は何だかやっぱり特別で、まるで命に直結するような心震えるような感覚です。

同じ水でも、心に沸き起こる感覚、感性みたいなものも海と川では全然違うのでしょうね。そう思うと環境一つで、感じ方や育まれる情操にも違いがあるように思えます。

 

違いと言えば、「多様性を認める」ということがそこかしこで言われるようになった現在ですが、この「違いを認める」というのは、実際直面してみるとなかなか難しいですね。

ほんのちょっとの違いがトラブルのもとになったり、違いを認める態でいるつもりが、自分と他者をシャットアウトしていただけだったり、自分の軸はどう持っていたらいいの?どこまで相手に合わせたらいいの?ということに行き詰まったり。

 

私も30代の頃はまだその辺りがぐらぐらしていましたし、あれは違いを認めるということではなかったかも、と思う節はたくさんありました。

 

自分軸を大切にしようとすればするほど他者の気持ちから遠ざかったり、他者に寄り添おうと思えば思うほど、自分がどうしたいのか見えづらくなったりしませんか?

 

そうやってあっちかな、こっちかな、とやってるうちに、ここは外せないのよね、っていう自分を持ちながら、相手のすべてを受け入れるのではなく気持ちに寄り添い、折り合っていくことを得てきたような気がします。

それでもいつもスパッといけるわけじゃないし、そもそも一っ飛びにベストな関係作りなんてできないのですから、時々痛い目にあいながらも、自分の気持ちを大事にしていたら、相手に「やってあげる、満たしてあげる」じゃない方法で相手を大事にするということに気づき、相互に思いを重ねていくというふうになっていく気がするのです。

 

8/9から始まっている『りんごの木のオンラインセミナー』で柴田愛子さんがりんごの木に通ってくる(幼少期の)子供たちに伝えたいことを2つ上げていて、ああ、やっぱりいいな、と思いました。

 

1つは、人を信頼できること

もう一つは、群れを怖がらないこと

 

でした。

 

愛子さんは、「自分の気持ちを大事に生きること、自分らしく生きることが何より大事」と色んな場面で伝えていますが、この言葉をちょうどいい塩梅に取れる人が少ない気がします。

 

特に幼少期~小学生時代、自分と他者との心の繋ぎがなされていない私たち世代は、自分の気持ちはわかっても、相手の気持ちがわからず、いつもこの言葉を聞くとどこかホッとし、心のどこかで他者を切り離し、自分の気持ちだけに固執する傾向があるようにも思えます。

 

「多様性いいね」と言いつつ、自分を守るための個人主義に都合よく捉えていると見えるものが見えなくなってきます。

 

さとのたねの子供たちの関係性を見ていてつくづく思います。

この言葉は、順番が「自分がどうありたい」ということが先にあるだけで、他者と考え方が違った時に閉ざして受け入れないという事ではなく、そこから他者と紡いでいく、他者があるから自分が育つということだと。

 

それは、個人主義に振り切った偏った考え方ではなく、自分も他者も不完全であるからこそおもしろい、というちょっと成熟度のいる考え方でもあるかもしれません。

「子どもたちのミーティング」(柴田愛子・青山誠共著)の本にもこう書かれています。

 

『個人主義っていうのは、他者を遮断していくのが個人主義だと思っている人が多いじゃない。「あたしがあたしが」って。でも人間ってやっぱりそうは生きていけない。「あたしはあたしのなのよ」ではなく、「あたしはここにいます。あたしとあなたの間に垣根はない。あなたの影響を受けながらあたしがいる」という個人主義。』

 

だから、愛子さんの「自分を生きる」の真意は、

「群れを怖がらない」という言葉に裏付けされているように私は思うのです。

そこを私たち大人が通ってきていないのなら、子供たちの健気に心と心を紡ぐ姿を見つつ、親になった今、自分も同じように体感したらいいと思います。

色んな経験が邪魔をして苦しむこともあるかもしれませんが「自分を生きる」ってそういうこと、と私は思うのです。

 

代表 岸本梓