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『くくり』を考える

いきなり余談ですが、昨日俳優・佐藤二朗さんが書くコラム記事をたまたま目にして読んでみたら、笑いが止まらなくなりました。

お腹を抱えながら笑い転げて、文章読んでこんなに笑ったのっていつぶりだろう・・・ってふと思いました。

素のまんまの佐藤二朗さんが現れててたまらない。

劣等感も自分の弱さも「どうでもいいや」って思えた時からありのままの自分で大丈夫、と思えたというくだりも、ただありのままで野放し、みたいなのも考えものだけど、という視点も、数々の笑いの渦の中にも結構人として大事に思ってる部分とか幸福感とかが読み取れて、すごくハッピーな気持ちになりました。

ご興味のある方はぜひ。

 

私はこんなふうには文章書けないけれど、アプローチの違いって人それぞれだからいいなと思うし、違うアプローチだからこその気づきがあったり、好きな感じ、好きな表現に出会ったり、色んな形で、色んな方面から、誰かの価値観を揺さぶったり、揺さぶられたり、心に響くものがあったりするんでしょうね。

きっとあの人もこの人も、あなたの周りにいる人の表現に触れて、感じて、自分にとっての価値観が生まれ、更新され続けていくのでしょう。

 

話は変わりまして、最近「くくり」について考えています。

 

子供も4、5歳くらいになると同質性みたいなものを求めたがったり、同質的、行動が似ている、好みが一緒、であることに安心感を持つ時期がきますが、それは子供にとって必要な発達過程の一つで、「誰かと一緒が嬉しい」共有的感覚を得たら、そこからまた子供たちは人との違いを感じて、違いを受け止め合う育ちに変化して生きてくのかななんて漠然と考えていました。

 

でもちょっと待って。

いやいや私、そんな風に育ってきたかな?

違いを受け止め合う教育、を感じたことないぞ、となり、

そういえば、なんだか、その先の子供たちが育つ環境って割と同質性を求められる場だったり、してません??

と至ったわけです。

 

学校に関わらず、親も、居場所も大人が作る世界は結構「くくり」に縛られてることが多い?って思ったんですよね。

 

そして女性は共有共感の中で生きたい脳の持ち主なので(これも一種のくくりですが)、特に「くくり」が本能的に好きだったりします。

星占い、血液型、誕生日が一緒、誰々と似てるとか、科学的根拠を飛び越えて一体化を求めたりもします。

 

「私は○○だから○○なんだよね」みたいな自分への理由づけ、私もやっていました。安心なんですよね、そこにいると。

数年前に雨女説を手放し、自分で言わなくなったら、覚えてる人は時々言うけど、今は雨が降る確率なんて五分五分だと気づきました。

おもしろがって遊んでる分にはいいのですが、結構自分の性質まで傾向化させて、心を決める時に邪魔になるような感じならそれは考えものかもしれません。

 

そうみていくと、「発達障害」も「不登校児」も「問題児」も大人の作ったくくり?

 

「○○が当たり前」とか、「○○がふつう」とかいったくくりも気づけば、学校側も親側も視点が違うだけでどっちも案外握りしめていたりします。

なんで握りしめたくなるのかな?って考えてみると、自分が育ってきた過程の中で同質性を手放す機会が無かったかもしれない、って思ったんですね。

それは、自己受容感だったり、自分がありのままでありながら、人は人と共にある、人と共に生きる、という体感を経てきていないといことにも繋がります。

 

じゃあ、自分の子供だけ何とかしようと思ってもやっぱり難しんじゃない?

私たち大人も自分が気づいて、自分の自己受容感とその先に人とどうあるかを取り戻すとこからなんだろうなと思います。

 

 

大空小元校長の木村泰子先生の

『「ふつうの」子なんて、どこにもいない』

という本の中で、

『「発達障害」というレッテルをはがせば、一人一人の子ども見えてくる。』という章で書かれた一人の子供のエピソードがすべてを物語っていました。

 

くくりで捉える大人の視点と子供の視点の違いがまざまざと感じられ、「障害名」の前に子供の一人格を見て、感じ取れ、尊重できる大人が増えたらいいなと思いました。

 

エピソードが子供の姿の本質をついてると思いますが、ここに書ききれないので気になる方は読んでみてくださいね。

その章の中で、木村先生は、こんなふうに子供を捉え書いていました。

 

~「自閉症」と診断された子がいても、まずその子がいて、診断名は後からついてきたものでしかありません。

先に「障害」を見ると子どもの姿が見えない。

まず、その子の「困っていること」を見る。

ではこの子が困らないためにどうすればいいのだろうと考えて、子供の背景にある障害を学ぶ。

このボタンをかけ違えると子どもは幸せになれない。~

 

一人の子どもの姿を先に見るか、後に見るかで、全く捉え方が違ってきます。後に見ても、「診断名」「くくり」に支配されていれば一緒です。

 

うちの子も、というか、私本来は一人一人が特色のある子供だと思っているのでこだわりがない子はいないし、それがいいんじゃないと思っているのですが、うちの子も極度のこだわりがあり(こう書きながらもみんな必ずあるでしょと思ってるから気持ち悪くて違和感なんですが)、これまた直観的に、ある時点で(多分3歳くらい)、このままを大事にしようと思って、この子がどう生きたいか、をみていくようにしました。

 

それから、もう一つ。

これも私の中で自然な流れだったのですが、周りの子たちがどう育ち、どう関わっているかに視点を落としました。

だから、学校の面談で我が子のことを自分から積極的に聞いたことはありません。

私がいつも先生に聞くのは、

どんなクラスの雰囲気で、子供たちはどんなふうに関わり合って育っているか?その中でうちの子はどんなふうに人と繋がり育っているか?

という点だけでした。

 

だって自分の子のことだけ聞いても見えないじゃないですか、子供は誰かを通して人と繋がりながら育っているのだから、そこを聞かなくて我が子のエピソードだけ聞いてほくほくしてもね、という直感がいつもありました。

 

そしたら、木村先生の本の中にもこんな一文がありました。

「子育てのコツは自分の子ではなく、他の子を見ること。

それが自分の子にかえってくる。」

 

長年、言葉にするのは難しくて漠然と漠然と自分の中にあった感覚を、時々色んな人の言葉や本に出会うことで、こういうことを私考えてたんだってはっとすることが多くあります。

 

教師とは違う視点だけど、自分の子だけを見過ぎて「くくり」を作って、垣根を作っているのは案外親自身だったりもします。

 

昨今日本の子供の幸福感が世界的にも低いということは言われていますが、幼少期、児童期、これまで同質性からなかなか抜け出せない教育の中で育った人たちが、自己受容感、自己肯定感をもたないまま大人になることがスタンダードになっていくとしたら、社会にどんな循環ができると想像しますか?

日本はいくら経済的に豊かでも、一人一人の幸福度が低いところからはきっとなかなか抜け出せないですよね。

 

「くくり」は安心、共同体感覚を生む材料にもなります。

おもしろさやわかりやすさが喜びに繋がることもあります。

 

だけど、私自身も「くくり」を離れ、違いを表現し、受け止め合うその体験が少ないと思うからこそ、「くくり」の前に、一人一人がどうあって、一人一人がどう繋がっているのかを見たいなって思うのです。自戒を込めて。

 

さとのたね

代表 岸本 梓