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ありのままの先にあるもの

昨日はお母さんたちとの定例ミーティングでした。

9年やってきてやっと最近終わった後にどっと疲れず、気持ちに余白をもって終えることができるようになっています。

それでもやっぱりエネルギーは要ります。

 

もともとお喋りや、人と話す、ということが楽しみだったり、好きなほうじゃないので、私の中では、「伝える」ということ自体が相当なエネルギー消耗だったりします。(そう見えないらしいのですが、それも私です)

その日感じたものを、ぼんやり、ぼーっと時間をかけて思考しているのが好きです。

それで、ほとんど家ではぼーっと状態なので、お喋り好きな娘には「この人、うんしか言わない」ってよく怒られます。

しかも、うんしか言わない思考時間に「アイス食べるね」、とか「おやつ食べるね」とか言ってずっと食べてる・・みたいなことが多々あり。

「確認したから」みたいな・・・娘もよく心得てます。

一方、私は娘が今日1日あったことを順序良く話をすることに本気で感心しています。

「どうやったらそんなに整理して話せるの?教えてほしいんだけど」って真剣に聞いたこともあります。

女に生まれても色々ですね(笑)

 

とはいえ、ミーティングでぼーっとしているわけにもいかないので、割ときりっとした感じに受け止めてるお母さんたちが多いと思います。それはそれで思いに嘘はない私なので、いいかなと思ってもいます。人って色んな側面があります。

 

そうそうそれで、昨日のミーティングでは、

「ありのままでいい」「自分らしくある」と言うことの先にあるものの話をしました。

 

ずっとどこか肩身の狭い思いをしてきたお母さん、自分の気持ちを見て見ぬふりをしてきたお母さん、子供に対して、その子の持って生まれたものより先に人様に迷惑をかけちゃいけない、頑張るのが当たり前、正しくあろうとしてきたお母さんたちにとっては、ほっとするんですよね、ありのままでいいんだよって受け止めてもらえると。

 

そう伝えるのは、人は、自分の存在をまるごと受け止めてもらう体感がないことには心が固まったまま動かないからです。

 

誰もが「私」というものはもって生まれているはずで。

外界の刺激に対して、オギャーと泣くのも自分、抱っこされて見つめてもらって、機嫌よくにこにこって笑うのも自分。

少し大きくなって、誰かに関わりたくて衝動で手が出たり、噛みついたり体当たりしたりのコミュニケーションもそう。

子供を見ていると、自分が外からの刺激に対して、何かを感じて、泣いたり笑ったり、怒ったり、喜んだり、自己表現するということの繰り返しです。

 

それはネガティブな感情であろうが、ポジティブな感情であろうが、どんな自分も躊躇なく出せる幼少期こそ、自己受容感の固まりってことです。

 

よく「この子は自己受容感が高いとか低い」とか「自己肯定感が高いとか低い」とか言われますが、

そうではなくて、みんな生まれた時から等しく、「私は私」という部分は持ってるんだと思います。

 

ただ、育つ過程の中で、自己受容感も肯定感も、環境や周囲の関わりによって削られるか、保たれるか、だけかなと私は思っています。

さらには、もともともって生まれてるのだから、ないわけじゃなくて、失いかけてたものを取り戻すことは誰でも、どのタイミングでもできるとも思えます。

 

だから、子供ももちろんですが、お母さんも一緒に、存在を受けとめてもらう体感、背景にある気持ちを受け止めてもらう体感があったら、親子共に育っていけるんです。

 

でね、昨日話したのはその先の話です。

前置きが長くなりましたが、根底の受容感がなければどこにも進めないんで、その話に先に触れました。

 

ありのままを認めていると、誰かの気持ちに寄り添ってると・・・その先にまた必ず葛藤がやってきます。

 

自分のありのままと相手のありのままが違った時にどうすればいいの?ってことがよーく起こってくるわけですよ。

ありのままを認める、ということは、必ず、どこかで「相手とぶつかる」ということになるんですね。

 

どんな組織でも、そこに1つの組織があれば、集まる一人一人の価値観も考え方も違うわけです。

親子でも、自分と子供は違うでしょ。

ありのままを表現してると大体ぶつかりますよね。

それで、また相手を正そうとしたり、相手を変えようとしたりしちゃうのね。

 

そうじゃなくて、自分の思いを大事にしながら、相手も大事にすることはできるんです。

相手の行為や行動ばかりに着目して、一つの解決策を見出そうとするから苦しいんです。

自分の「当たり前」で、相手を見るから違うことに憤りを感じちゃうんです。

ほんとは自分だって相手にとったら全然違う存在なのにね。

 

その時にうまく自分と相手との境界線が引けるかってことが大事になってきます。

境界線ていうと、思いが伝わらない相手はシャットアウトする、とか、もういいやって自分の気持ちを放棄しがちですが、そうではなくて、相手の背景を見つめて、相手の存在を認めながら、相手の行為や行動に対してNOなり、「私はこう思うよ」って自分の意見を伝えることです。

 

結果、交わらなくても、受け止め合えればOK。

その先にそれぞれ違うやり方でやりましょ、という場合もあるだろうし、じゃあ、こういうやりかたはどう?って第3の視点が見いだせる場合もあります。

 

境界線がうまく引けるようになって、葛藤がうまく抱えられるようになるとずっと楽になります。

でも、そこ至るにはぜ-んぶ体感が必要で、頭だけでこねてたって身にはならないですね。

さとのたねには、毎年生まれや育ちの背景も性質も違う色んなお母さんが入ってきて、私自身が自分が自分がなんて言ってらんないわけで、もうね、年がら年中、葛藤なわけですよ。

 

自分自身を振り返っても、お母さんたち見てても、子供たち見てても、やっぱりそのままの自分を認めてもらって、ネガティブもポジティブも自己表現をして大丈夫っていう安心感があって、うまく境界線が引けるようになるわけで。

 

しかも、大人は20年、30年、40年と色々染みついちゃってるから時間がかかります。

その横で子供たちが難なくその過程をやってのけちゃうから、それがまたお母さんたちの心を動かすんです。

お母さんたち一人一人の持ち味が違い、それぞれが色んな段階にあるのもいいですね。

 

人は人によって自分を失う時があっても、

また人によって取り戻しもできるわけです。

 

うまく境界線が引けるようになれば、「対立」ではなく、「対話」が成り立ち、そこまできたら自分を信じる気持ち、人への信頼感が腹落ちするんだろうなあと思います。

でも、何度も言いますが、境界線も対話も信頼感も、一気にジャンプしてそこにいけるわけじゃなくて、自己受容感があってこそ。

 

だから、まずは、

やらない選択をした人を責めない、

やろうとする人の足を引っ張らない、

そこだけは決めておいて、それぞれが、自分の心に向き合い、

自分がどうありたいかを自分に問うてから始めようねって話でした。

 

色んな組織を目にしますが、いつも何かのせいにしている組織には温かみと安心感を感じません。

いつも何かをやってあげよう、解決してあげようとする組織にも危うさを感じます。

そこにいる人たちが、「自分を生きる」ということをしているように感じないからです。

 

自分で感じて、表現して、考えて、自分で決めていく、

それでいて、

いつも誰かの温かみを感じる人と人との繋がりがある、

 

そんな組織を作るのはどう考えたって簡単じゃないけど、

ここがなきゃはじまらないって思っちゃうのは私のこだわり所(信念)です。

 

とはいえ、娘の話に「うん」しか言わないのはどうなんだって気もします。気をつけなきゃと思いつつ、そういう自分を許せることも必要って思ってます。

いつもいつもきっちりじゃなくて、そこはメリハリで(笑)

 

さとのたね代表

岸本 梓