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迷惑をかけ合える関係はありますか?

まだまだ続きそうなコロナ情勢ですが、保育活動も、保育当番組みも、月に一度のお母さんたちとのミーティングも工夫しながら進めています。
外から見れば、不要不急の外出かもしれませんが、子供たちにはリアルな体験があって、子供同士の刺激と人の愛の中で育っていくほうがどう考えたって健全です。
健全だからやっているというよりも、子供たちの姿を見て、子供たちが是も非もなく、感じたままに今を生きる在り様を見て、私たち大人が幸せを感じているんでしょうね。
そうすると、今度は、お母さんたち大人から、子供にその笑顔が伝わって、子供は安心して生きていけるんです。
いつも双方向的に循環的にあったかい気持ちが巡るわけです。
今年はさとのたねにとってどうやら10年目の節目の年に入るそうで、というのも、私、数字が頭に残らない人なので、あまり自分の年齢も、区切りの年も頓着がないんです。
なのでちょっと意識的に使ってるだけで数字に価値を見いだせないのですぐ忘れてしまいます。
ラッキーなのは数字の評価とか全く気にならない、おかげで子供の通知表も全く気にならない。
困るのは、例えば、さとのたねのことを、対外的なところでお話をするときに、これまでの数字的なデータがぽんと頭に浮かばないので毎回毎回掘り起こすことになります。
これ、かなり面倒な作業です。しかも当の本人は結構どうでもいいと思ってるので、嫌々な作業になるわけですよ。
でも、出すからにはきちっと出します。しかも結構きちっと正確に調べます。そのあとすぐ忘れますけど(笑)
だいぶ話が逸れました。
それで、今年度は対外的なことが増えてきていて、気づいたんですけど、組織における「アウトライン」「ルール」ってすごく大事なんだけど、その器、枠組みに力注ぎすぎちゃってませんか?
中身に何入ってるんですか?ってことが多くありません?
しかも、それに気づいているのに、流してる。
思考停止して、ルールだから、とか、決まりだから、と言って考えることを放棄してる大人が多すぎる。そんな大人を見て育つ子供は右に倣えですよ、中高生になったあたりに、大人たちに自主性もてなんて、いまさら言われてもねって感じです。
一方で「アウトライン」「ルール」がなくてもいいと振り切る人もいますが、私はそうは思いません。「アウトライン」は必要なんです。
でも、本来、「アウトライン」は、人が何を大事にしたいのか、どうありたいのか、その中身を守るためにふさわしい器にすればいいわけであって、変える必要のないもの、とは思いません。
「外枠」は、「内」を守るために必要であり、守りたい中身があるから、外枠をどうするか考えるわけです。
でも、でも。
順番が逆~!!って思うことが度々です。
立派な外見を前にして、中をのぞいてみれば、なにこれ中身どこですか?
中と外となんかもうずれちゃってますよ、みたいな…
そういうわけで、10年、子供のこと、お母さんたちのこと、保育のこと、繋がることの意味、心を耕すことの意味、共に生きることの意味、などなど、内を、ソフト面をとにかく重視してきた私たちですが、それは、ソフト面が充実してないのに、ハード面整えてもね、みたいな感覚が私にはずっとあったからです。
どれだけきちんと外見が作られていても、そこに人と人との信頼関係がなければ、空虚なものです。
そういうのは損得、善悪、正邪の判断があるだけで簡単に崩れます。興味がありません。(あ、またはっきり言ってしまった…汗)
そこにお互い様って言える人間関係があるか、誰かの心の動きを誰かが拾って受け取ってこうしてみようって思えるかどうか、私とあの人はどうも考えもやり方も違うけど、それはそれでうまく補い合えばいいよねって思えるかどうか、自分の思い込みをエイって外して人と心のやり取りを積み重ねてみようと思えるかどうか、のほうがずっとずっと組織には大事で、一人一人が自分を軸にお互いの心と心を繋ぐ現場がなければ、外枠を作っても意味がないと思うのです。
一方で、ハード面が不必要だとは全く思っていません。
子供たちとお母さんたちとスタッフたちと地域の人たちと積み重ねてきたソフト面があるから、その中身を守るための「アウトライン」を考えたいと思うんです。
でも、それはいつも中を意識した「アウトライン」です。
私はお母さんたちの気づきが、感性が好きです。
子供たち同様、一人一人、みんな違います。
Facebookに時々お母さんたちの目線で書かれている思いも、保育当番に入った際に日誌に綴る思いも、子供たちを見つめる視点がみんな違って、そのみんなの感性に見守られて、子供が育てられていると思います。
いい時ばかりじゃなくて、揺れたり迷ったり、自分の中で練る人もいれば、すぐに誰かに聞いてもらいたい人もいます。
だめだーって自分をさらけ出さずにはいられない時もあります。
いいか悪いかじゃなくていいよって言われたって、いいか悪いかで判断しちゃう自信のない自分が思わず出ちゃうときもあります。
そういうの全部全部ひっくるめてのお母さん自身の気づきと感性が私は好きです。
保育当番に入ったあるお母さんの文章です。
『それぞれの不快が爆発してます。でも、それは長くは続きません。必ず終わりがやって来て、それぞれのタイミングでまた快がやって来ます。
その変化、変わっていく様が面白いです。
だから、小さな人たちとのお散歩はやみつきになるのです。』
自分の感性でもって、子供から受け取り、変化を感じ、面白さを見出していく、その姿に心動かされます。
すべては自分が感じるところから。
色んな段階の色んな人の感性が交わり合って、さとのたねは常に更新され続けています。
さとのたねがあるから子供やお母さんが変わっていくのではなく、一人一人が一人一人に向き合っていく過程があるから、さとのたねができていく、そんな場だと思っています。
それにはお互いに胸を借りなければいけません。
時々ご迷惑おかけしちゃうけどごめんなさいねって言いながら、時々ざわつきもしながら、でもやっぱり信じたいって気持ちで繋がっていたいです。
それは、さとのたねですごく大事にしていることだけど、さとのたねじゃなくてもできることです。
そうやってご迷惑をかけ合える人が身近に一人だけいればいい、そんなふうに思っています。
どうか身近にいる人で見つけてみてください。
いなくて困ったときにはここに声をかけてもらえばいいので。
というわけで、器をどう整えていく?ってことは、そこに、大事な中身があってこそですよってお話でした。でも、それは言い換えれば、とっくに身近なとこから、個から始まっているということでもあります。
さとのたね
代表 岸本 梓