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子供の背中をみていると

先週、子供たちとお散歩していると梅の花が咲き始めていました。ふきのとうにユキノシタ、セリの天ぷらも食べました。もう春がすぐそこまで来ています。

例年なら3歳児卒会の子供たちと過ごす日々はあと少しとなんだかしんみりした気持ちになるのですが、今年はそうでもありません。

でも。やっぱり、1,2,3歳児の頃の積み重ねってほんとにほんとに大事だなってしみじみ思うのがこの時期です。

1歳児の頃には想像もしなかった育ちの姿を3歳児で体感し、お母さんたちの心の在り方と変化もまた言葉にできないものがあります。

 

1~3歳はまさに自我の爆発期。それと共にお母さんも子育てがてんやわんやになり、育児放棄したくなる絶頂期。

早く子供から離れたい、早く幼稚園へ、早く保育園へ、早く自分の時間を、離れたら離れたでうちの子大丈夫かしら?と結局いつもどこかで不安感が付きまとう、っていうお母さんたちいっぱいいると思うんですよね。

 

気づけばいつしか子供の気持ちはそっちのけで、、、

でも、そっちのけにしなければ身が保てない焦りと不安感。

そんな不安も一時的で物理的なサービスやイベントでやり過ごすこともできます。

それも一つの方法でしょう。

 

でも、根本はそこじゃなかったりします。

見えないように、見せないように蓋をしているだけで。

 

先週、1歳児の子たちと歩いていたら、なんだか途中からお母さんが恋しくなって不安になったAちゃんが、私と戯れていたYくんを見てわーんって泣きだしました。

子供ってね、何かきっかけがあると突然気持ちがあふれたりするんです。

 

ほんとはね泣きたかったのね、Aちゃんは。

でも、最近は楽しめるようになってきたし、安心していい場なんだって思えてきたから、ちょっと自分で頑張りたい、泣かないでバイバイしたいって決めてたのも私、感じてたんです。

すごいですよ、まだ2歳になったばかりなのにね。

 

こんなに小さくても、気持ちって、心の中に一つじゃないのね。

ママは好きだし、さとたねも行きたいし、すこーし楽しくなってきたからできるなら泣かないで行きたいし、でもあの子がいると安心ていう気持ちもあるし、あーでも転んだらママの抱っこがやっぱりいい、あの子が何かしてる私もやってみたい、、、、

1日の中でも子供たちの心は一つの感情に支配されることなく、行ったり来たり、行ったり来たり。

で、Aちゃん、わーんって泣いたまま、自分で前に歩み始めました。

泣きながら一歩一歩。

ゆっくりゆっくり、だんだんだんだん泣き声の間隔が短くなり、泣き声の大きさも小さくなり、、

 

自分の気持ちを泣くことで整えていっているのがその背中から伝わってきます。

Aちゃん、しばらくして、くるっとこっちを振り返り、私とYくんが来ているか確かめました。

 

そしたらね、Yくん、Aちゃんにそっと歩み寄って、朴の葉を差し出しました。

言葉はありませんが、おおむね、「どうして泣いてるの?」ってことでしょうね。

そういう時、ほんとに子供にはかなわないなって思います。

Aちゃん、その日はYくんの葉っぱを受け取りませんでした。

でもね、きっと伝わってると思うの。

いつか受け取れる時が来ると思うの。

 

私たち保育者も、例えばひどく危険が伴うときや、相手をひどく傷つける行為があった時、それは人としてどうなの?という時、自分の気持ちだけに偏りすぎてる時は、行為(doinng)に対してNoと言ったり、受け入れられないことを伝えたりします。

 

でもね、子供たちの存在(being)そのものと、その子の持って生まれたものを何一つ否定しません。

子供たちはそのdoingとbeingの扱われ方の違いを、明確に、シンプルに受け取る力が大人よりはるかにあります。

 

だからね、存在そのものを認めてもらう体感がある子は、自分で勝手により良く育っていこうとします。

言ってしまえば、子供の心の栄養はそこ。それだけでいいんです。

 

Aちゃんが色んな感情をまといながら泣いている、

YくんがそのAちゃんに寄り添いたい気持ちを届ける、

でも、Yくんはなんとか泣くことを解決しようとしていたわけじゃなくて、

ありのままのAちゃんを自分の気持ちで寄り添っただけ。

 

それだけでもう次に重ねていくことが違ってくるんです。信じられないけど。

 

大人はね、どうしても感情に限定的な理由をつけたがります。

わが子であればなおさら。

子供の中に色んな気持ちが渦巻いてるし、変化し続けてるのに、思い込んで決めつけたがるんです。

この子が嫌がるからとか、この子はこうだから、とか。

それはね、まずは自分が安心したいから。

 

子供ってそんなやわじゃないです。もっともっと感じてるし、ちゃんと自分を大事にしながら生きてる。

自分が子供だったら、どんな風に自分のこと信じてもらいたいですか?

 

子供たちの存在まるごとを認め合う3年間を、気づけばいろんなことを背負いながら抱えながら大人になってしまったお母さんたちが共に見つめていくことは、お母さん自身の気づきとなり、ぐるっと巡って、子供に、自分に返ってくることに繋がります。

 

だから、「子供だけの育ち」として切り離さないんです。

大人はシンプルじゃない分、そりゃ自分の湧き上がる感情にのたうち回りますよ。

でもね、一人でそれをやらなくていいんです。

迷ったら、子供たちが背中を見せてくれます。

仲間がそっとそばにいてくれます。

のたうち回る頻度は余分なものがひっついてる分、時間はかかりますが、その過程は子供たちとおんなじです。同じ人間ですから(笑)

 

しなやかな土壌で豊かな根っこを張った子供たちは、ほんとに強いです。

自然保育だからたくましい、とか、体が作られてるとか、のびのびしてる、とか言われますが、そんなものが大事なわけじゃないです。

 

自分という軸をもちながら、自分の気持ちを大事にしながら、

相手のことを大事にする

 

認め合う、分かち合う喜びを知って、子供たちがこれから生きる世界を肯定していく

 

彼らを見ていると、そういう根っこを自分たちで作っていってるって確信するんです。

 

みっちり3年~5年やったら、お母さんたちもほんとの意味で「私も子供も大丈夫」が自分の中に泉のように湧き上がってくるんです。それを私たちは「腹落ち」と呼んでます。

頭で思ってたことが確信・核心となる瞬間です。

 

長いって思いますか?

子育てって、幼稚園、小学校行ったら終わりじゃないですからね(笑)

 

それでも、蓋して見ないようにしてその先の10年20年30年、子供や人や自分に対して不安感を抱き続ける人もいるでしょう。

その先にあるものは何でしょうね。

 

まあどちらにしても子育ても、人との繋がりも、インスタント式にはいかないってことです。

そしていつもどんな時も、選択者は自分自身。

選んだことは、一周廻ってちゃんと自分に返ってきますから。

 

人は、存在丸ごとを受け止めてもらう場と、

心と心が深く温かく繋がる、認め合う体感がありさえすれば、きっと大丈夫、そんふうに思います。

 

さとのたね代表

岸本 梓