昨日、さとのたねのお母さんたちとのミーティングで「自然保育・野外保育が第一目的でやりたいわけじゃないんだよね」って話の後、あるお母さんから、今日一番びっくりしたこと!というメッセージが届きました(笑)
続けて、「私もそこ!そこに共感してるの!」っていう共感&応援メッセージが届いたわけです。
ずっと伝えてると思ってたことが、伝わりきってないのはよくあること。
今ようやく伝わる、あの時は見過ごしてたけど、今なら受け取れるって時がそれぞれありますからね、それでいいんです。
「野外保育」とか「自然保育」とか「地域活動」とか「市民活動」がやりたいわけじゃないんです。
何をやってる人ですか?って聞かれたら、
多分、ハンバーグの「つなぎ」みたいなことやってます、って答えるかもしれない。
(以前のブログにも書きましたのでご参照をhttps://satotane-yotsukaidou.jimdofree.com/2020/07/29/%E4%BF%9D%E8%82%B2%E8%80%85%E3%81%AF%E8%84%87%E5%BD%B9/)
でね、昨日はなんて伝えたかというと、
認め合う、受け止め合う、育ち合うってことをやりたいんですって。
子供も、大人も共に。
これはさとのたねの活動方針に明記されています。
さとのたねの、というと、組織イメージが強まる人がいるのであまり使いたくないのですが、さとのたねに関わらず、これって人がこの世に生まれ落ちた時から始まる最も自然な営みで、かつ最も難解なことだと思っています。
人はこの世に生まれ落ちた時から、一人で生きていくことはできません。
必ず誰かの力を借りないと生きられないように生まれてきています。
人間が繋がりを求めるのも、組織を作るのも、自然なこと。
でも、その社会がどんな社会であるのか、その繋がりがどんな繋がりであるのか、
そのための受け皿はどんふうにしたいのか、中身をどう大事にしたいのか、
が大事なだけで、「自然」「保育」は私の中で、「人が人を互いに認め合う」ことにつながるための手段や方法なんです。
自然は多様性。
まるごと受け入れてくれる安心感と同時に、
どうにもならないありのままをどう扱うかが必要です。
保育は関わり。
自分の心が動くきっかけを与え続けてくれる他者。
関わり方で豊かにもなるし、傷みも伴う。
すべての違いの中で、どう自分が生き、どう相手を大事にするかは本当に難解です。
そしてその前段階には、
自分で感じる、
自分のネガティブもポジティブも評価なく受け入れる、
自分の気持ちを可も不可もなく味わいきる、
自分を生きる、
自分で決める、
相手の気持ちを思う、
相手が自分の力で立ち上がれるようにするための寄り添い
doingとbeingの境界線を引く、
信頼感をもって対話する、
というながーいながーい過程があります。
多分人は生きている間ずっとこの過程を行ったり来たり。
すべて自分の心の中の練りなんで、階段みたいにひょいひょいって登れるわけじゃないです。
下がったり、降りたり、ジャンプしたり、座ってみたり、途中でケガしてみたりね。
人が人として生きるってそういうことの繰り返しなのかなって思います。
どこに行っても変わらないこと、であり、
どこに行っても難解なこと、
でも、そこに至る瞬間を感じた時は、ほんとに幸せだなって思います。
それを活動方針に置いてるわけです。
私、相当なめんどくさがり屋なんで、自分で言っといて結構ハードルが高いです。
もう~自分の足で立ってよ~って思う時も、逃げたくなる時も、正直あります。
ただ、温かさの中で、分かち合う、認め合う、というのは、自分だけでは何ともならない。
これ、大人の社会だけでやってたらやっぱり相当しんどいだろうなって思います。
私たちにはシンプルに生きる子供たちが目の前にいる。
子供たちは余計なものを背負ってない分、めちゃくちゃシンプルです。
彼らを見てると、認め合うってこういうことねってすっと胸に落ちます。
もはや、どっちが人生の先輩かわからない。
ごちゃごちゃ考えてわかんなくなったら子供の背中を見ればいい。
私はいつもそっと観察させてください、という気持ちです。
ほんとになんて近くに素晴らしきお手本があるんだと思います。
一人誰かが気づけば、次の人に繋がります。
組織だから一斉に同じことを気づくべきなんて思いません。
一人一人の感性と気づきが大事だから、まずはそれぞれのペースを認めるところから。
子供と大人の間に垣根なく、気づいたらあったかい気持ちが循環してる、
知らない間になんだか視点が変わっていたわ、なんていう世界で、
自分の気持ち、相手の気持ちに気づいていけたらいいな、そんな場にしたいなって思っています。
さとのたね
代表 岸本 梓