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子供の心の扉をたたいてみると…

3月のまたねの会も新設した4,5歳児クラスのやま組の始業も遠い昔のことのようです。

私にとって文章を書く、表現するにはかなりの隙間が必要なのですがここに使うエネルギーを溜められるような余白がもてない状況がずっと続いていました。

そんな合間にも、りんごの木の愛子さんの動画を見ていたり、社会間保育園の本を読み直していたらそのたびに心が振れてああやっぱり子供がおもしろい、子供の味方でいたいなって思ったりしていました。ただただ心に湧き上がる気持ちを味わう時間が必要な数か月でした。

それはさておき、日常の子供たちもおもしろい。1歳児は1歳児なりの、2歳児は2歳児なりの、3歳児は3歳児なりの育ちがあって、そして今までの日常にプラス4歳児の続き、が加わって、時に混ざり合って、あ~なるほどここにつながっていくのね、という発見が日々あります。

言葉が豊かになるのやま組の子供たちとは、子どもミーティングの時間だけでなく、お昼の時間、散歩しながら、色んな投げかけをして、子供の気持ちを聞くのですが、そんなふうに感じてたのね、っていう驚きがあります。言葉はまだまだ率直だけど、率直だからこそ確信をついていたり、はっとさせられるような心の機微を感じたり。言葉に表すまでの子供自身の体感と練りの過程を想像したり。

私、のやま組スタートするまでずっとこの「子供と対話する」、ということに自信がありませんでした。今もないんですけどね。なんせおしゃべりは好きなほうじゃないし、しゃべらない人たちの表情を言葉でないコミュニケーションをくみ取るほうが性に合ってるし、面白いと思っていたから。何よりもじんわり感じる「間」がある。言葉って感覚+頭を使う行為なので、受け取った言葉をすぐに返せない私で務まるのかしらと思ってたんですよね。

でもね、よき応答ができているかは置いといて、子供の心の声を聞いてるだけでもなるほどって感じることはたくさんあって。

 

ついこの間もちょっと意地悪な質問をしてみたのね、

「あなたたちさ、お母さんにお当番に入ってもらいたいって言うじゃない?でもさ、みんなお母さんがお当番に入るとぐずぐずになっちゃうよね。自分がそんなふうになってお母さんも困ってるのがなんとなくわかってるのにやっぱりお母さんがいると嬉しいものなの?」って(笑)

そしたら、口をそろえて「入ってほしいよ」と言うのね。

「じゃあさ、なんでぎゃおぎゃお泣いちゃうんだろうね」って聞いたら、

「そうなっちゃうの!」「わかんないけどお母さんいるとそうなっちゃうの!」

「でも、それでもいいの」って。

4歳児だっていまだに途中でどうにもならないぐずぐずタイムがあることは自分たちにもわかってるんです。自分がわけわからなくなるほどに泣いても、それでお母さんが不機嫌になっても、もうそうなっちゃうんだから、その感情に身をゆだねるしかないってことです(笑)

そしてそんなにも母の存在丸ごとをオッケーと思える子供たち、そんなふうに愛される母ってね。

少ししてある子がね、「次は泣かないし」って言ったの。これはこれでその子の本心。

子供はどの時も自分を生きたがっていて、しかもよりよく生きたいと思っているんですよね。

泣いたり、怒ったり、すねたり、あてつけたり、負の感情も抱き合わせで。

感情のざわつのない穏やかで平穏な時がいい時、子どもが育っている時と思いがちだけど、案外子供は私たちがざわざわしたり、そわそわしたり、大丈夫かと不安になる時ほど自分で自分を見つめていたりします。

だからどの時も自分の気持ちに一生懸命な子供たちが、ほんとに愛しいです。

そして、自分のあるがままの感情に優劣をつけられず、自我を認められていくってことが、人が人として育っていく基礎になっていくんだなって実感があります。

この子供たちのやり取りの時間、遠くの畔で母のそばで泣いていた子を変わりばんこに見て気にかけていた彼ら。泣ききってその子の姿がすぐそこまで見えた時、「これ引っ張るの手伝って!」すかさずその子に声をかけたんですよね。自分たちの遊びに夢中になって見逃してもいい場面だったけど、ちゃんとその子が見えたタイミングで呼びかけてました。

それは何よりも優しい「待ってたよ」に私は聞こえました。

ぼくも同じような時がある、だからどう声をかけようか、子供は子供なりの方法で寄り添っているんでしょうね。

 

さとのたね代表

岸本 梓