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「主体性」を考える

相変わらず何とも落ち着かない日常を過ごしています。あ~これ今伝えたい、書きたいってことが山のようにあるのになかなかアウトプットできなくて残念です。

私が忙しいということは、同じくスタッフも見えないとこでめちゃくちゃ忙しい、ということです。

日常の保育のこと、子供のこと、母たちのことを常に考えながら、裏側で、夏のデイキャンプのこと、コラボのこと、これから始まる新たな取り組みのこと、それぞれが抱える4つも5つものことをまわしながら常に臨機応変に動いてくれています。

そうした中においても、子供たち、お母さんたちの日常に差し支えないように心を保ちながら、自分のご機嫌は自分でとりながら、自分の主体性と周りとの協同性の中で物事を考えていくって相当な覚悟がないとできません。

 

でもね、彼女たちが大事にしたいことは、いつでもいたってシンプルです。

年度初めのスタッフミーティングで思いの共有をした時に、

「子供がおもしろい」「子供たちがどう育っていくかをそばで見られることが幸せ」

ということが根底にありました。

いつも彼女たちの中には、目の前の「子供が」が主語になっています。

そして、そこに必ずセットで「お母さん」への寄り添いがあります。

子どもをみる、ということは、そこに繋がるすべての人の存在を感じながら保育をすることでもあります。

 

そこが基軸です。

 

言ってしまえば、あとは私たちにとっては枝葉。

団体の形がどう変化しようとも、常々課題という課題が絶えない中で、起点となるのはやっぱりそこなんですよねえ。

 

おもしろおかしく子供たちと日常を共にしたい。

それは、自分よがりのおもしろおかしさじゃなくて、子供が感じることを、考えることをそっと隣で感じさせてもらう時間ほど至福な時はないと感じているような…

そういうだいぶ変わった人たちがさとのたねを支えるスタッフです。

 

何ができる、できない、得手不得手は横に置いといて、そういう意味で私はスタッフの一人一人を心底リスペクトしています。

段階も違います。専任の経験年数も違います。資格のあるなしも違います。凸凹がみんなあります。そして私が思うに、全員おそらく違う分野で力が発揮されるHSPです(笑)

でも、そんなことはたいした問題じゃなくて、子供への思いとそこに繋がる人たちへの寄り添い、生まれ持つ一人一人の感性と、コアスタッフという超絶めんどくさい役割へ向き合う覚悟をもちあわせているかどうか、ということでしょう。

 

「超絶めんどくさい役割へ向き合う覚悟」

 

まさに、これですね…これを「喜んで」やる人、やりたがる人は、私も含め、まずいませんよ(笑)

だって、私たち、日常の保育こそ、やりたいんだから。

だからこそ、「超絶めんどくさい役割へ向き合う覚悟」を担いつつ、子供の隣で、子供の世界を守りつつ、母たちに思いを寄せ続けるスタッフがいてこそ、と思います。

 

もちろん役割は違えど、お母さんたちが子供たちやスタッフへ思いを寄せてくれていることも原動力となっています。

最近、外回りが増えてつくづく思うことがあります。

「事が動いていくところには、人あり」と。

型を守りつつ、大義を見定め、柔軟性ある人がいるところは、事が動いていく、と。

どんな型があっても、やっぱり、それはほっておけば形でしかなくて、

結局のところ、「型に人の心が宿っているか」、な気がします。

 

そうそう、あっちこっちに思考が飛んで申し訳ないのですがタイトル的には、この話じゃなくて、主体性を考えるっていう話でした。

「ありのまま」も「主体的な保育」も最近なんだか捉え違いをされるなあと思っていて、たまたま目にした小林さん(長野県の森のようちえん「山の遊び舎はらぺこ」の保育者)の文章が目に留まったのでご紹介します。

 

『「主体性」っていうのは、さも何か自分で獲得して、ひとりひとり、私が私がっていうふうにして育て上げていく、もしくは獲得していく、ものだと捉えているんですが、実はそうではなく、それぞれお互いをケアしていく中で、関わり合いながら、その中でひとりひとりがかけがえのなさを感じて、さらにそのことで自分の輪郭を作っていく、ということだと思います。

自分一人で何かがぽっとできたとか自分で考えたことだからとか、そういうことだけで、もしくはそういうことを主体的っていうふうには捉えていませんよ、と考えています。

 』

 

共同的な働きの中で、主体性みたいなものを獲得していく。

まさに、だと思います。

 

「主体性、ありのままを大事にする」ということが独り歩きして、自分の心を守るためだったり、勝手な思い込みによって他者との線引きをするための聞こえのよい言葉になっていたり。

 

子供たちの姿を客観的に眺めていると、「主体性」というのは多様な「共同性」のなかでこそ育まれるものだということがよくわかります。

大人も同じで、主体性を考える時に、必ず自分自身の共同性が問われることになるのかなとも思います。

自分の思考だけで、思い込みだけで「主体性」は成り立ちません。

また、逆に共同性に偏りすぎて、相手の気持ち自体を勝手に推し量って思い込んでるケースも多々あります。

 

それは考えてみたら、結局のところ、自分の物差しで思考しているだけで、自分と相手、両者を大事にしていることには繋がっていません。

相手がいるなら、自分の気持ちを持ちつつ、相手に聞いてみる。

自分と相手が違っても、なるほどと言って受け止める。

相手の言葉に反応するのではなく、気持ちに心を寄せる。

そうやって多様な人を互いに認めていける世界になったらいいなと思います。

ま、それが人が人の中で生きていくということのなかで一番難しいことなのでしょうけど。

 

だからこそ、子供たちの世界に私たちが心救われているのかもしれない、そんな風に思います。

色々ありながら、子供たちと日常を共に生きられることに感謝です。

 

さとのたね

代表 岸本 梓