少し小さい頃のことを書きます。
家庭内では割とインパクトのあった父のこと。
父は昔から風貌が「お寺のお坊さん」だったので、私は、小学4年生くらいまでは父が某大都市の行政マンだったことを知らずに過ごしていました。
家にいる父は、行政マンのにおいは一切せず、よく寝て、よくお酒を飲み、よく動き、
時に少林寺の師範であったり、如意(つるが巻き付いた枝を手入れして持ちよい長さにしたもの)を作るために山に入ったり、だるま絵の師匠のもとに学びに行ったり、佛教大学の学生になったり、少林寺の関係で四国に行ったり、中国に行ったり、父に繋がる人たちがうちで夜遅くまで酒を飲んでひとしきり話しては泊っていく、なんてことも度々あり、ここ数年は(売れない)本を3冊も出版したり、、、と
とにかく色んな側面があって、普段は何を職にしている人なのか、本業がまったく想像しがたかったんです。
そういえば、作詞作曲していたこともありました。
性格は猪突猛進の凝り性だけど、怒りだしたら相手をこてんぱんにしてしまう気の短さ。
急速沸騰型(笑)
でも、筋違いなことが嫌いなだけなのは子供心にわかっていたのと、反面とても愛情深い人だったので、私は父の気短さも受け入れていて、判断力や決断力と共に、個性的な生き方が好きでした。
うちは、父が少林寺の道場を開いていたのと、母が書道教室を開いていたのですが、
どちらにも、
「あなたも大きくなったらやりなさい」と言われたことがなく、
二人とも、
「やるならよそでやったほうがいい」というくらいでした。
とはいえ、育つうちに、結局自分からやりたいと言って、書道は物心ついたころから教室の隅でお遊びで筆を握り、少林寺は小学4年生のころになってやってみたいと言ったのを覚えています。
道場は父が市役所の仕事を終えて帰宅後の平日1日と週末の1日の週2日。
道場と言っても、地域の公民館を借りて。
小さい頃からいつも送迎にくっついていたので、道場に通う子供たちとも交流があり、大きな子たちと一緒になって遊んだ記憶があります。
夏になれば、父企画の合宿に同行し、昇級の試験があれば我が家の板の間が勉強会場になり、、、
今思えばですが、市役所勤務という仕事をしながら、よくもまあ掛け持ちで何十年と地域貢献をやってきたなと思います。
合宿というのも当時お金もそうない中で、宿泊所といえば、毎年お寺にかけ合って宿泊をお願いをしていました。
代わりにお寺の掃除、座禅もセットでした。
電車に乗って、車に乗り合わせでと、手段はいろいろでしたが、たいてい地元から1時間以上はかかる場所、川がそばに流れている場所に、小学生から中学生まで、毎年40人近い子供たちを連れて行っていました。
下見はもちろん、当日も同行していた私はそれが当たり前になっていましたが、結構な労働量だと今になって気づきます。
集団活動における基本的な危険認知、計画という部分で、私は父から知らず知らずのうちに学んでいた部分も多かったと思います。
合宿の合間の川遊びの場所、と言ってもかなりの激流箇所もあって、私自身流されたりする経験もありました。
でも、そこを予測しながら必ずそれ以上下流に流されることがないようにあえて倒木がある場所を選んだり、ロープを張ったり、おおきなビニールボートを用意していたり、大人の配置の仕方など、遊びのスリルとリスクマネジメントの共存を父はいつも考えていました。
父がやっていたことは野外保育ではないけれど、何十年かたって、あれも、これもと今につながることがおもしろく感じます。
学生時代、部内で事故があり、父に連絡したときの、
「感情論は抜きにして、これまでの事実の時系列を客観性をもってまずは記録するように」
という的確なアドバイスは、その後私がさとのたねに携わる上で、事後対応における必須事項となっています。
「自分を生きること」と「人との温かな繋がり・交わり」を考えていくときに、
同時に必要になってくる、
「区切り」、「線引き」、「枠組み」、「客観性」ってなかなかに難しかったりします。
でも、なぜ私がそれを受け入れられたのかは、私自身の振り幅の少ない気質のせいもあるかもしれませんが、
振り返ってみると、
いつも「まんまを受け止めてもらっていた」という満足感と安心感が子供時代にあったからだとも思います。
「こうなりなさい」とも、「こうしなさい」とも、求められることもなく、
「こうしないなら、こうさせないよ」と条件をつけられることもなく、
足らないことは、「梓はこういうとこがあるからな」と的をつきながら笑ってただ受け止めてもらっていたことが、そのまま無条件に愛されているという実感につながっていたと今だから思います。
父は短気だとは言いましたが、短気によって私がひどく傷つけられることもなかったのです。
気が短い人はどこへ行っても敬遠されがちですが、目に見える特徴的な部分とは別に、
その背景を感じ取れる。
視点が変われば、その人を何度でも色んな角度からとらえられる。
ちょっと癖のある人ほどおもしろい、と私は思います。
あ、でも、人によって感じ方の違いや、受け取る側の気質や合う合わないなどあるとは思うので、委縮しちゃうようなタイプだと難しかったかもしれないですね。
同じ家に住んでいても、私と弟でもきっと感じ方の違いはあったと思います。
短気な部分は好きじゃないからと避けつつも、それ以上に関わりの中で愛を受け取れた、というとこでしょうか。
今の私も、子育ても、「自分を生きる」という部分において、折々に父の影響をもらい受けています。
人と違うことがしんどいなあと思う時期もありましたが、中学、高校生時代、
「ちょっと多数が好むものに合わせてみるか」と試してみましたが、
「あれ、合わせることのほうがしんどいぞ」ということに気づきました。
今、周囲との比較のしすぎや心配ごと、が自分の中に生まれにくいのもそのおかげです。
でも、それ自体の考察にも変化があって、本来、人の数だけ違いがあるもの、と今は思っています。
大勢のくくりに見える一人一人の違いをいかに受け取っていけるか、そういう視点で繋がっていけたらなと思います。
最近は行政関係の方と話をすることも増え、父の役所での姿ってどんなだったのだろう、と思い至ることがあり、父の本を読んでみたら、これが新たな発見でした。
あれだけ家で、地域で自分の好きなことを人と繋がりながらやってきたその傍らで、
行政マンとしては、役所人生の後半に、
「地域企画」、
「地域コミュニティ活性化のための仕組み作り」、
「職場内の縦の繋がりを取っ払うための交流の場作り」、
をかなり独自の手法で発案、実行していたことを知りました。
長年の土木課での関わり方も独特で、読んでて単純に面白い。
こんな無茶苦茶な上司がいたら困るだろうな、と。
でも、大義を軸に、枠に縛られない発想は、行政に関わらず、これからどこの組織においても必要になってくると思います。
これだけ多様化が言われている中で、今も変わらず、行政も教育の現場も「手段が目的化」して硬直していることがあちこちに見られます。
そうすると、言い訳が充満するし、できないことのリストアップのほうが圧倒的に多くなります。
「何を大事にしたいのか、何のためか」
ゆるぎない目的の共有があって初めて、「手段、方法」を選択していけるのに。
すべては一人一人の人間が作っているのに。
それがいつまでも逆転しているような場、組織、人では新たなものは生まれていかないだろうなと思います。
本心、本音を「自分の言葉」で語れる人に出会いたい。
そんなことを身近な人から気づかせてもらった夏でした。
父は両道の人だったけれど、それは交わらないように見えて互いに影響しうる道だったのかなと、私にはない思いつきとやり方で歩んでいるその姿を感じられたこと、新しい発見でした。
さとのたね
代表 岸本 梓