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「間」がない時代?

蒸し暑い日が続いたと思ったら、今度は毎日雨です。

休みでなければ、雨の日の保育をどうしようか、タープをどこにはろうか、雨雲の切れ目はいつか、子供たちはどんな感じかな、などなど細かく考えるとこですが、今は夏休み中。

「あらまた雨なのね」、くらいの頭の働かせようで済んでいるので気楽なものです。

 

育った環境はみんなそれぞれだと思いますが、少し小学校の頃のことを振り返ってみて、今は「主体的な学び」が言われるような時代になりましたが、子供のたちの生活環境の中にどのくらいの「間」があるのだろうとふと思いました。

 

私が通っていた学校は、当時は子供の人数も多く、1クラス40人、1学年5クラスの今でいうマンモス校。

途中教室が足らなくなって、校舎を広げるのに、一時的にプレハブ教室のような臨時の教室で1年間過ごしたこともありました。

確かに宿題も多かったし、一律一斉の授業、全校集会、外で集会があるときは全校生徒そろっての行進なんかもありました。

 

でも、、、結構子供と先生の間に、子供と学校の間に、ゆるやかな「間」があったんですよね、今思うと。

それから、自分たちで考えて、意見を出して、行動するという機会も意外にあった。

 

いくつか思い出してみると、

校庭がとても広くて、遊具が校庭を囲むように数多くあって、校舎の400メートルくらい先には子供たちが遊べる山があるという環境でした。

 

今、学校は下校してからしか遊べないですが、当時は割とどこの学校も授業が終われば16時くらいまで校庭で自由に遊べてたと思うんです。

一度家に帰ってから、誰かの家まで遊びに行くという手間も省け、ランドセルを校庭の隅に放り投げて飽きるまで遊んでた記憶もあれば、1年生でも自転車で1~2㌔離れたおうちまで出かけてた記憶もあります。

帰宅途中、「あ!ランドセル忘れた!」と言って、友達のランドセルをまた学校に取りに行くことも何度かありました(笑)

 

私、息子が小学校に入ってちょっとびっくりしたのが「廊下の狭さ」でした(笑)

私が通っていた学校は、小中共に、「ワークルーム」といって廊下が、とっても広かったんです。

うーん、そうですね、教室の1.5倍くらいの幅だったかな。

それが3クラスぶんくらいずーっと繋がってる。

 

何学年かで臨時で集まって話を聞くときも、その「ワークルーム」という廊下が活用されてたのですが、小学校のワークルームには、大小の円が4つくらい描かれていました。

大きいのだと、直径4メートルくらい。小さいのだと1.5メートルくらい。

 

これが描かれているとですね、、、当然遊びが生まれるわけですよ。

「ろうかは走らない」と言われた記憶よりも、あの円を使って「まるおに」という遊びをしていた記憶のほうが先に浮かびます。

 

サークルは、鬼が入ることができない安全基地で、捕まった人はサークル以外の場所で固まって動けなくなります。

仲間を助けるためにはサークルから出てタッチしなければいけない、みたいな遊びでした。

 

雨の日なんかは滑るんで危ないですよ。

木の床ではなく、つるつる滑るような床でしたから。転んで打ち付けたりすると痛いし。

どこからともなくスライディングしてくる男子がいたりするわけで。

身の安全を守るためにこちらも雨の日は結構必死です。

 

もちろんぶつかって怪我があったりもして、「走らない」と言われた記憶もあるんだけど、大体そのあとは走らないように、「歩いてタッチね」とかルールを変えて、「気をつけて」おにごっこをしてましたね(笑)

 

まあ、子供のことなので、熱くなってくると当たり前ですが、ついつい走っちゃうんですけどね。

その繰り返しで、全面禁止になるとか、だれもやらなくなる日がきたかといえば、卒業するまでそれはありませんでした。

 

円が描かれてるんだから、走るな、というほうが難しいと私は思いますが(笑)

あ、もしかすると、遊ぶな、とは言われてはなかったのかな。

 

「青空給食」というのが月に1回あって、給食をどこで食べてもいいという日があったのも面白かったです。持ち運べる給食でメニューは今も覚えてますが、

「パン、ゆで卵、牛乳、バナナ」これをもって外でも、どこでも食べていいというもの。

 

「グリーン広場」という場所が一番人気で、校舎の真ん中あたりに、人工芝とレンガでできた広場がありました。

冬なんかは日が差すだけで、そのレンガがとっても温かくなるので、レンガを這いつくばって暖をとる子どもが無数にいて、ちょっと気持ち悪い光景(笑)

匍匐前進してる子供があっちにもこっちにも、みたいなイメージです。

グリーン広場、向かいのお山、遊具、教室、ワークルーム、先生と、色んな場所に子供があふれていたのを思い出します。

 

広い校庭だけど、6学年5クラスもあるので、男の子たちは、ドッジボール、キックベース、野球の場所取りはかなり必死でした。

男子たちは、あらかじめ足の速い子をクラスで選んでおいて、昼休みのチャイムが鳴ったと同時に場所取りに走ります。それでも、学年が小さいとなかなか厳しくて、泣く泣く大きな子たちにゆずったり、はたまた喧嘩をしたり、交渉の末のいさかいなんて男子はしょっちゅうでした。

 

行事の名前は忘れちゃいましたが、1年に1回、クラスごとで新しい「集団遊び」を考え、プレゼンし、最終的に全校でいくつかにしぼって、やってみる、という取り組みがありました。

 

夏休み、運動会の準備を先生に誘われて、「夏休みの学校」に特別感を感じつつ、他の子と何人かで一緒にやったこともあったし、委員会やクラブ活動も今よりずっと子供たち主体で話し合って、決めて、動いていた気がします。

 

地域の「子供会」一つをとっても、遠足の行き先の計画から、お金の管理、祭り出店の提案まで、すべて子供に任されていました。

親たちはいつも横で提案を聞きながら、できることをできる範囲でサポートする存在でした。

 

そうそう、冬には「どんど焼き」という学校行事があって、あれも今思えばすごいことだなと思うのですが、校庭に、地域ごと登下校している分団ごと、どんど焼きをやっていました。

 

つまり、校庭中に、4,5メートルはある巨大焚火が、何十か所もあるという状態です。

正月飾りやら、書初め大会の書初めやら、間に挟まっています。

それがあちこちで天高く炎が燃え上がる様は圧巻でした。

 

で、炭ができたら、石を集めてミニかまどを作って、網を置いて、みんなでおもちを焼いて食べるの(笑)

すごくないですか(笑)?

地域の方や保護者のお手伝いもあったと思いますが、ほとんどが軍手をした高学年の子たちが、火の番。小さい子たちの餅は大きい子たちが焼いてあげるのが通例でした。

 

嫌な記憶が残りやすい人と、楽しかった記憶が残りやすい人がいるのでしょうけど、私は割とこういう記憶のほうが鮮明に残っています。

学習面に熱心、給食残飯0に熱心、規律に熱心、集団生活に熱心、宿題に熱心、そういう先生も確かにいたけど、多分、そういう大人のことが心に残ってないということは、それが私の人生の中で重要でなかった、捨てても大丈夫なことだったと思ってます。

 

それよりも思い出すのは大人になってもわくわくすること、なんか、あの時の大人ってあんな環境を子供に用意できたんだ、すごい!って思えることだったりします。

 

「発達障害」という言葉が今ほどあふれてなかったあの頃、「あの子は特別」を今ほど感じませんでした。

偏りのある子は当たり前にいたし、それを偏りがあるともないとも、なんとも思わないで過ごしていました。

雪の降る地域で年中ずっとランニング姿の子もいれば、授業中はずっと鉛筆をひたすら回してる子もいれば、椅子をガタガタさせて、授業中何度もひっくり返る子もいる、でも、一方でその子たちの存在感は他の子と同じように光って見えた、それが当たり前。

 

「主体的学び」なんて言葉がなかった時代にも、子供たちが考える、行動を選び取れる「隙間」はあったのだと思います。

 

子供の多い時代だから?大人が忙しかったから?大人がおおらかだったから?

 

わからないけど、「間」があることで、子供たちが自分で感じられる、考えられるのは確かな気がします。

 

「間」がないと、やっぱり苦しい。

隙間なく、いつも見られてる、言い聞かせられている、守られすぎている。

大人だって、そうだとしたら、やっぱり苦しい気がします。

 

今はどうなのでしょう。

 

どの時代にも良し悪しはあるのだろうけれど、

少なくとも、子供の世界には「間」がってほしいし、「間」を与えられる大人がいてほしいし、

「間」を探ることができる人でありたいなと思います。

 

さとのたね

代表 岸本 梓