多様性と調和の中で生きること、その難しさを日々実感する時代はまだまだ続きそうです。
人は、実に様々な遺伝子を残すために同じ考え方、同じ行動の取り方を選ばないように夫婦が組み合わさっている、と言ったのは脳科学者の黒川伊保子さんです。
『生殖相性を決定するのは、遺伝子の免疫抗体の型。
これは生体としての反応の傾向を決定する。
例えば、いきなり聞きなれない爆音が起こったら、とっさに駆け出すか、しゃがむのか。
夫婦というのは、このような無意識の反応が同じにならない組み合わせになっている。
そうすれば、どちらかが生き残れるし、子孫に遺伝子の組み合わせもふえるからだ。
動物学的には理にかなった組み合わせだが、心理的には、ことごとく予想を裏切る行為に出るので、癇にさわることになる。』
(「夫婦脳」黒川伊保子著より)
「永遠に快適に過ごせる組み合わせ」などない、ということです。
ワクチンを打つor打たないも、学校に行かせるor行かせないも、コロナにかかってはいけないor仕方ないも、何を選ぶかが同じになることはきっとないはずで、同じにならないから、実は相手の命、生き様、心、それぞれの守りたいものが保たれているということなのではないかしら、と思います。
関係ないと思っていても、地球規模でみてみれば、誰かの選択により、自分が守られていた、救われていたということに気づきます。
これがどちらか一方しか選択できなかった時こそ、人類は滅亡するような気がします。
ということは、、やっぱり、私たち人類の動物的本能とやらはやはりよくできているのです。
自分の本能的直観力をあてにしていいということ。
でも、こんがらがっちゃてる人が多すぎるのはなぜでしょうね、、
おそらく人の数だけそれを選んだ理由や背景があるのだろうけれど、生き残りに必死な私たちは、
自分と反対の物を選ぶ人を間違ってると非難したくなったり、間違いを正したくなっちゃたりします。
頼まれてもないのに教えてあげたくなっちゃたりね。私自身の自戒を込めて。
例えば、今は学校に行かせるべきでないと考える人からすれば、学校に行かせようとする人は何も考えてないように見えるし、学校に行かせる人からしたら、行かせないほうがいいと考える人は考えすぎのように見える。
でも、どちらも自分の視点でしかそのことを捉えてないから、不毛な争いが起きるわけです。
本能的にそう思うなら、まずは自分がそうしたらいいのに。
多様性と調和は、「自分を受け入れる」ところからしか始まりません。
受け入れた先に、人と共に生きることを選び、自分の世界を一歩進めるのなら、違う選択をした人の理由や背景を知ってみるといい。
自分とは違う視点ではっとすることもあるかもしれないし、逆に自分の状況、気持ちには当てはまらないかもしれない。
でも、裏返してみれば、相手も自分もそれは同じこと。
なるほど、とその人の気持ちを受け止める。
それが、多様性の中で生きるということの始まり。
それでも非難したくなるようなら、多分、それは自分自身の問題です。
自分が自分を受け入れられているかどうか。
そして、自分がその選択に伴うリスクをも受け入れられているかどうか。
いちいち「あなたのためだから」と正義を振りかざして、人を巻き添えにしなくて大丈夫って思います。
自分で考えなくてよかった時代が終わって、自分で考える時代に突入している、そんなふうにも思います。
長らく受け身で生きてきた人、判断を誰かにゆだねてきた人、それでうまくいかなかった時は誰かのせいにしてきた人は大混乱でしょう。
でも、みんなもって生まれてるんです。
選ぶ力も、生き抜く力も、何よりも、自分を相手を大切にする力も。
子供を見てたらわかります。ああみんな100%もって生まれてきてるって。
今、家族や小さなコミュニティでの繋がり、が見直されています。
でも、動ける幅が「家族だけ」、になった時、しんどくなる人もいるかもしれません。
親という役割にますます押しつぶされそうになっているお母さんもいるかもしれません。
そうすると、子供が100%持って生まれていても、親の生きづらさや苦しさや不安から、子供の100%を知らず知らずのうちに削り取ってしまうことがあります。
子供の幸せを願う時、お母さんだって幸せであってほしい。
1人で乗り切れる人はいいです。
でも、子育ては元来一人でするように作らていないんです。
太古の昔から、誰かの手を借りて、ご迷惑様と言い合いながら子供たちを養ってきました。
その大人の背中をみて、子供は自然と「お互い様」の社会を学んでいったのだと思います。
だから、家族以外の小さなコミュニティで、できれば、多様な価値観を受け止め合える、違いを補い合える、自分と人を大切にできる、温もりのある繋がりをもてるといいなと思います。
でも、対話を通して育っていない、コミュニケーション不足の私たちって、人が怖かったり、また傷ついたりするんじゃないかって思っちゃいますよね。
「永遠に快適に過ごせる相手」などいないのだから、ここはゆっくりやっていくしかありません(笑)
子供を通して、繋がっていくと、一緒に笑ったり、一緒に悲しんだり、一緒に苦楽を分かち合えるそんな関係を紡いでいけたりします。
だからこそ、たまーにじゃなくて、できるだけ家族のような近い関係性で、困った時に、困ったよーって言えるまでになる繋がりを大事にしたいって思います。
私が思う繋がりは、
お醤油きらしちゃったから、少しいただける?とか、
美容院行きたいから、今だけ子供お願いしちゃっていい?とか、
旦那さんと大喧嘩してまいってるから話きいてほしい!とか、
あの奥さん病気しちゃって大変そうだから、おかず作ってもっていこう、とか、
少し前にはあったご近所同士のご縁のような、人の心が通う繋がりです。
でも、今はこういった関係性が無きに等しい世の中になっています。
一方で、生きづらさの無限ループに陥っている親子が増え続けているのも事実です。
そして、これが、自然保育イベントだけをやる、というやり方を選ばない由縁です。
日常を共にすることで、人のほんとの痛みも喜びも、分かち合えるような繋がりを紡ぐ力がお母さんたちには備わっていると思っています。
だけど、時間はかかります。
子供も大人も、家族も、人と人との繋がりは時間がかかります。
時々疲れたり、自分が嫌になったりもします。
でも、そういうこともひっくるめて、共に生きるコミュニティの中で、大人が幸せで、子供も幸せ、という姿をたくさんたくさん見せてもらいました。
その人たちは今、自分で育てた種をあちこちでまいています。
水に流されたり、踏まれても踏まれても根をしっかり張る大丈夫な種です。
そういうだいぶ時間のかかかる職人的な作業は理解されにくいのはわかっています。
でも、これしか私にはできません。
簡単なバラマキはできないのです。
そして、10年たってみれば、コミュニティ育児と子どもの心に寄り添う保育は、子供とお母さんが勝手に根を張り、育っていくことに気づかされます。
保育者は、あくまでもつなぎで、風のような役割と思い知らされます。
明後日から、2学期の保育が始まります。
まためんどくさくて、おもしろい日々の始まりです(笑)
陰陽セットにして生きていきます。
さとのたね
代表 岸本 梓