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祭も日常保育

11/7(日)、今年もにぎやかに秋の収穫祭、さとたね秋祭りを無事終えることができました。

 

例年、子供も大人もお腹を抱えて笑うこのお祭り、今年は特に、コロナのことが長引く世の中で、大人たちが笑っているその姿がほんとに胸に刺さりました。

 

大人の窮屈さは気づかないほどに子供たちが生きる世界を窮屈にしていきます。

だから今年ほど、大人の活気と笑顔に心動かされた祭りはありません。

 

大人だって、日々見えない我慢が続いています。

大人だから当たり前にできてしまう心の抑えが、時に相手への厳しさになったり、余裕のなさになったり、こうすべき、ねばならないという空気の蔓延になったりもするでしょう。

 

家族以外の繋がりに触れることも激減しているでしょうし、まあ、それがちょうどいいという人もいるでしょうが、めんどくさい繋がりに触れずに過ごしていると、人への耐性が弱まります。

というか、それはそのまま自分への向き合いも必要としなくなる、ということ。

子供は大人の背中を見て育ちますから、できるなら「自然と、あったかい人との繋がり」が伝わったらいいなとは思います。

 

それで、今年印象的だったのは、お父さんたち。

2年目、3年目、4年目のお父さんたちがなんだかすごく楽しそう。

 

いつもは、芋煮の鍋にはしっかり母ちゃんたちが張り付いて、

「どーしたらいいのかしら」な父ちゃんズに指示を出し、言われるがままな父ちゃんたちが、今年はあっちでもこっちでも自分から動いていて、芋煮はほぼ父ちゃんたちが味付けまでばっちりやってくださってました。そして、めちゃくちゃおいしかった!!

 

それ以外にも、水汲み、包丁サポート、焼き鳥、焼き芋番、子供の見守り、カメラマン、各所で関わっているパパたちの姿を見ていたら、あ~大丈夫だな、大事なことは子供たちやお母さんたちから伝わってるんだな、なんて思えました。

 

大体、1,2年目の父ちゃんたちは斜めから見てるんで(笑)、

「何をやったらいいかわからなかった」とか「役割があったらいい」とか「こういう母ちゃんたちの雰囲気に入っていきづらい」とかあとで言うんですよね~

 

これ、想定内です。

 

準備してないわけじゃないですよ。

「仕事」として役割があることで安心感を覚える父ちゃんは多いので、手持無沙汰にならないよう前もって配置したり、得意なことを活かしてもらうよう手伝えそうなことをお母さんたちから事前に聞きだしておいたり、当日手持無沙汰な雰囲気漂う方には、そっとお声かけさせていただいたり、それでも様子見から始まる人や僕はこう過ごしたいんでオーラが出ている方はそのままそっとしておいたり、あらゆるアプローチを私たちは考えています。

多様な現場が常なんで。

 

ただし、どう感じるか、はご自身の問題。

 

なんで、色々母ちゃんたちが算段したうえで1年目、2年目で、すっと入っていける人もいれば、そうでない人もいるのは想定内なんです。

だって、安心感ってそうたやすく持てないでしょ(笑)

 

いいんです、ざわざわするならそれでいいし、

心もとないならそれでいいし、なんか他の人がやたら頑張って見えるなら、それでいい。

 

それを帰って母ちゃんにぼやくとこから、みんなスタートするんですから。

 

だけど、だんだん子供たちが2年、3年と育ってくると、子供の日常から染み出るようにここでの日々が不思議と父ちゃんたちにじっくりじっくり時間をかけて伝わっていきます。

 

そこは母ちゃんじゃダメなんですよね(笑)

夫婦だと意図的なものを感じちゃうから。

 

だから、きっと子供が父ちゃんたちに心で体で伝えてくれてるんだと私は思っています。

で、父ちゃんたちにも、そこをちゃんと受け止める力があって、順繰りに3年目くらいになるといい感じになっていくわけです。

でも、今年はそこに輪をかけて、お父さんがお父さんとして、日々、仕事以外に「自分」の心を自由にして「感じる」機会が少なくなっているのかも。

そんなことも相乗効果であったかもしれません。

何はともあれありがたいことです。

 

お母さんたちはというと、まあ楽しそうでしたよ。

よく毎年毎年直前までひーひー言いながらも色んなことを編み出して、新しいことをやるものだと感心します。

母は瞬発力、スタッフは継続力、とつくづく思います。

 

不思議と両方うまくブレンドされるからおもしろい。

 

今年の実行委員の母ちゃんズはそっとで、じっくり。

外に慌ただしさ、が漏れ出さないタイプ(笑)

忙しさを強調せず、互いに一つ一つ丁寧に。

だけど、必要ないとこは思い切って省いてく、それでも1週間前は、家族の体調不良が重なったりで、きっとひやひやと落ち着かなかったと思います。

 

でもね、準備が9割。当日はほぼおまけのようなもんです。

何年かやってきたお母ちゃんたちはもうわかってます。

ここまでの過程がすべて糧だということを。

 

そこを自分で体感していくと、同じように子供に期待をかけなくてすむから楽になります。

 

親自身も「過程」を経験していること。

その過程の中で揺れたり、模索したり、時にはぶつかってまた考えなおしたり、あ~しんどってことを、隣の我が子をみれば、難なくやってるじゃないか、ということに気づいてハッとすること。

で、また自分に向き合うこと。

 

祭りの意義とは、まさにそれですね(笑)

 

みんなが一つになることでもなく、1日で絆を深めることでもなく、

過程を共にしながら、気づきを自分自身で得ていくこと。

いつも通り、です(笑)

 

子供たちを見ていると思います。

一つの切れ目なく、物語が存在し、いまここを楽しんでいると。

 

もっというなら、多分この祭りは、1年前、2年前、3年目から繋がっていて、そこに関わってきた人たちの思いに日々触れながら、この子たちはここにいる、と。

特別なようで特別でない日。

 

スタッフや長くここに携わっている人たちの心には、今だけじゃなく、あの日のあの子の育ち、たくさん祭りに登場した秋の味覚その一つ一つが地域の方のお心遣いであったり、加工までの子供たちとの過程、里山で日々繰り広げられる子供たちの遊びがそのままお店になっていく過程、今は卒業したあの子とあの時を共にし今ここで育ち続けることの交わり、あの時の母同士の寄り添い、

そんなことも心をよぎるんです。

 

だから、ありがたい。

情勢や世間の風向きを考えてやめること、全然違うものにすることは考えられませんでした。

最悪の手立てはもちろん考えていましたが。

だけど、子供たちにとって、祭り自体が日常の1コマ。点と点をつなぐ必須の1日。

 

すべての方が集う場にはならなくとも、

心に息づいている人たちに思いをはせながら手を合わせたいです。

 

さとのたね

代表 岸本 梓