気づけばもう師走。毎年毎年子供たちと日々を駆け抜けてるとほんとにあっという間でびっくりします。ついこの前まで4,5歳児クラスをどうするかなんて話してたのが、今やそれが日常になっていくことの不思議。
先月片道1時間かけて車で通ってきてくれているKくんのお家に電車に乗って遠足に行きました。その時の様子はFacebookにも書きましたが、伝えたいのは、普段森で過ごしている子供たちでも、公共の場であんなこともこんなこともできるよ、みたいなことではなくて。
もちろん、その子にとっての挑戦ややりたいことから始まる成功体験は子供の成長にとって必要なんですが。
頭で「育ち」を考えると、「○○ができたから育っている、この子は大丈夫」、みたいな思考になりがち。
彼らが育っていく過程を見ているとほんとにそうだろうか、と思うことが何度もあります。
もっと「人が育つ」という根底に流れてるものがある。
それが「自分という存在そのものへの根拠のない自信」
自信、とは、「○○ができる、優れている」、という目に見えるものではなくて、
「ぼくは、私はこうして生きています」、という泉のようなエネルギー。
そこに可も不可もない心の状態。
その上で、他人との違いに触れながら、時に、怒ったり、泣いたり、笑ったり、喜んだりしながら陰陽、快不快の世界を行ったり来たりしながら生きています。
世の中は、悲観するほどに冷たくもないし、期待するほどに優しくもないということを得ながら。
自分を感じ切る、自分の心を感じたままに委ねる、そのことをそばにいる大人に、仲間に寄り添ってもらいながら相互に対等に受け取り合う。
その中で根拠なき自信を見失うことなく育てていくことができる。
でも、でも、、、、
これが相対性を得た脳で考える私たち大人にはめちゃくちゃ難しい。
相対性を得ていくことこそが、大人になっていく過程だったりもするからです。
見えにくいもの、不確かなものより、目に見えるもののほうがわかりやすいですよね。
だけど、そこで得た安心がほんとの安心かは、さて、どうでしょう。
比較や相対的思考ができるようになってからが、この「根拠なき自信」のほんとの出番。
それがその子の軸であり、灯であり、基盤であるから。
これさえあれば、どの道を通っても、大丈夫。
そこから、○○ができたという達成感に繋がったり、○○やってみようというチャレンジ精神に繋がったり、そしてまた、軸に立ち戻れる。
どの時点でも巻き戻しができるとは思うけど、
そこには、「その子そのものの育ち」をそばで感じてくれる人が必要だし、
「できることで『大丈夫』を得ている自分自身」がいたとしたら、そこへの問いかけが必要。
手立てや方法を考えることを優先するか、心で感じ切ることを優先するかで、
子供が受け取るものも、子供に対する見方も、自分自身への向き合い方も、
全く違うものになっていきます。
結局どっちも必要なんですけどね。順番が大事。
子供たちを見ていると、必ず、混沌も、痛みも、不快も存分に真っ正面から感じ切ってから、少しずつ少しずつ自分を変化させています。
もちろんその時々の感情を吐き出し、寄り添ってもらいながら。
そういうふうに人が育っていく過程を見せてもらっていると、私たちもそうやって育っていけばいいんじゃないの、と思うわけです。
子供たちは、予期せずして自分に起こりうる痛みも不安も、思い通りにならないことも日々生きてる中で十分に自分の心で感じきっていきます。
だから、すごいなと思うのです。そのしなやかさこそが根拠なき自信。
対話や何かで自信を得ることより、前提として先にあるもの。
目を見張らないと見えないもの。
簡単でないもの。
そういうことを子どもたちから気づかされる日々です。
さとのたね
代表 岸本 梓