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いつからどこから「指導」になるのか

さてさて少し前に我が家にももれなくコロナがやってきました。

全国的にみても確率はぐっと上がってきていたのでいつまですり抜けられるかといったところでしたから、まあ仕方ありません。

夏休みでよかったという感じです。とはいえ、主人以外の私や子供たちは元気。

 

うちのようにもう子供がある程度大きくてそれなりに隔離ができるという状況と、子供がまだまだべったりという状況ではまた違うでしょうね。

 

子供が小さい頃は子供が風邪をひけば一緒になって風邪をひき、熱でうんうんうなりながら子供たちの看病しつつ食事の世話をした、なんてことはしょっちゅうでした。

母はいつも子供の生命線。24時間365日営業だと思い知らされた乳幼児の子育て期。

今も真っ只中のお母さんたちには自然と手を合わせたくなります。いつもありがとう。

 

これまた少し前ですが、映画「夢見る小学校」を見てきました。

その少し前には今Amazonでも話題の書「ママがいい!」(松居和)を読み終えていました。

加えて最近、来年高校を卒業する長男の進路の一つに大学というのがあって、大学パンフを読む機会がありました。

 

それで、なんか変じゃない?ちょっと不思議、と思ったのが、

大学や専門学校になって、明らかに専門分野を研究したり、探求したりする学習・主体的な学びになるのに、

それ以前の、特に義務教育期間はなんでこんなに自分の好きなこと、逆に苦手なことが見えにくくなる学習になっているのだろうと。

 

なぜすべての教科をまんべんなく、人との比較の中で、できるできないだけが評価されるのか。

人と違うことが当たり前なのに、人と違うことに劣等感を感じるような学びの仕組みになっているのか。

 

どこの大学のパンフを見ていても面白いんです。全然興味ない分野でも。

 

そこはまさしく主体的な学び、アクティブラーニング。

まあ今はオンラインもあるのでどこまで実現されているのかわかりませんが。

 

だけど、別に理科ができて英語ができないなんてことがあっていいし、

逆に英語ができて、理科ができないこともあっていいわけです。

教授は、その分野に特化して研究する人であり、どちらかというと、その人自身が学びと共にある人。

 

高校もわりにそこに近い気がします。

何かに特化した専門的な先生が多いもの。

何を拾っていくかは子供に委ねられているほうだと思います。

受験制度があるから結局そこは追い立てられていくのでしょうけど、生活面で細かなことまで決められることはこれまでより多少は減ります。

それで大体、高校生や大学生になると子供のほうからようやく学校が「楽しい」とか「面白い」という声が聞こえだすんです。

 

不思議~

 

いつからどこから「指導」中心になるのかしら。

 

幼児期は、まだ割に遊びが中心?でもそれも園によるのかな。

大人が子供を楽しませる関わりになっている部分もあるかしら。

小学校に入ったらなんだか約束事が一気に増えます。

大人が決めたことを子供にやらせ、守らせることに一生懸命。

このあたりから「指導」という言葉が顕著になるような気がします。

中学校も「先生→生徒」への一方通行。

 

「共に在る、学ぶ」という雰囲気を感じることは子供たちの様子を見ていてもほぼないですね。

この時期に子供たちの中で圧倒的に多いのが、

「大人は子供の話(心の声)を聞かない」という言葉。

高校になるとようやく自ら考え、選択する機会がでてくるという感じでしょうか。

 

大学・専門になれば、今度は逆に違うことこそ売りなわけです。

それはまさしく、「自分」というかけがえのないものを大事にしてきたか、大事にされてきたか、です。

社会もそうでしょう。

 

でも、大学いくまでに「○○高校(大学)に行きたいなら頑張れ頑張れ」と急き立てられる。

生活も、学習もまんべんなく頑張らないとダメな仕組み。

その子が持って生まれたものこそがかけがえのなさなのに、まるでそっちがおまけのよう。

足らないものを足していくという、いつまでも足らないことへの視点と指導。

 

その先にある学びの場は、これまでと在り方ややり方が全く違うのに。

学びの目的に連続性が感じられない不思議。

 

もっと小さいころから、それこそ思春期こそ自分がおもしろいと思ったことを大事にしてもらえる子供主体の学び、大人の関わり、仲間との対話ができたら、ずっと子供たちが苦しまなくて済むのに、と思います。

 

急に、「自分のやりたいことは何ですか」と聞かれたって、

「やらなければならないことがあるでしょ、やりたいことは後回しにしなさい」と言い続けられ、

周りを見てもそれが当たり前だとされてきた9年間があれば、自尊心は縮むしかありません。

学校は家よりも一日のうちでも長い時間生活する場なのだから。

 

「みんなの学校」も、「夢見る小学校」も、公立・私立問わず、子どもが暮らす学校だから、子どもが幸せであるように、そこに関わる大人も共に考える、そういうスタンスです。

 

そうすると、何よりも子供が安心してそこにいられる。

でも、「主体的に対話的に生きる」ということは、めんどくさいことでもあるから、そこは必然的に自分に向き合うことになる。

そうして、心が揺さぶられ、自分で自分の心を耕すことになる。

 

「南アルプス子どもの村小中学校」の子でも中学生にもなれば、向き合いへの葛藤も率直に口にしています。

 

「やりたいことがなかなか見つからなくてわからなかったけど、ここにいる大人と仲間がいたから、自分は自分でいいんだ、と思えるようになった。自分で考えることが強みになった。」

 

人は人の中で育つ、そのめんどくささまで奪わないことが肝なんでしょうね。

 

翻って親は?

 

学校が子供を育ててくれるわけではないもの。

「あんたんちの子はあんたちの子」、という柴田愛子さんの言葉通り。

揺れながらも「うちの子はうちの子」、ということをちょっとずつ引き受けていくしかありません。

子供もそこからまた根を張り、芽を出していくことができるでしょうね。

 

私だって我が子を見ていて思いますよ。

うちの長男は幼少期、車、電車、昆虫、魚類~始まる進化の過程の生き物、恐竜、化石、星、立体、原子、分子、、、

あんなに好奇心に満ち満ちて、やりたいことに夢中にだったのに、

今はどれもやりたくない、何もやりたいことが見つからない、というんですから。

 

「もっと遊んでいたい。誰かと一緒に。」

 

今でも、彼が口にする言葉です。

彼がやってきたことはずっと遊びであり、学びのはずだった。

 

遊びが学び。

学びが遊び。

 

でも、いつしか、何かに規制され、決められ、やらなければならないこととセットになっていた。

周りを見渡しても、そう思う自分がおかしいのかもしれないと、

今もまだ葛藤のど真ん中にいます。

 

そこに、誰かの寄り添いはあっても、自分で切り開いていくしかないわけです。

その時に親が特別何かをしてやれるわけでも、答えを導いてやれるわけでもありません。

子供は解決を願っているわけではないのですから。

 

親はその無力さを抱えながら、痛みに心揺らしながら、幸せを願いながら、

それでもなお、「あなたはあなたのままで大丈夫」と隣で信じ続け、関わり続けるしかないのかなと思います。

 

そうやって親も子供という存在に幾度となく試され、育てられ、たくさんの気づきをもらっている。

どんな立場であれ、「大人→子供」じゃなくて、「子供⇄大人」、こういう関係が広がっていけばきっと子供は何度でも立ち上がれる。

だから気づいた人から広げていってほしい。

 

指導じゃなくて、共に在ることの豊かさを。

やってあげることじゃなくて、寄り添うことの温もりを。

 

1学期ももうすぐ終わりという頃、のやま組のAがふとしたなんでもない時間に目を輝かせてこう言いました。

 

「あ~やっぱりさとたねって最高だな!だってやりたいことがやれるんだもん!」

 

いいことであれ、悪いことであれ、なんでもないときのつぶやきがどれだけ本心と結びついているかは子供たちを見ていたらわかります。

 

彼が言う「やりたいことがやれる」は、自分の好き勝手に生きられる、そういう意味ではありません。

彼らは相当な葛藤を日々重ねながら、自分なりに自由を掴んでいるんです。

 

「自分で考え、やってみて、その結果を自ら引き受ける」というところまでひっくるめての、

5歳児が放つ、

「やりたいことがやれる」という言葉の重みが想像できますか。

 

私にしてみれば、こちらが泣きたくなる手を合わせたくなるような瞬間でした。

子供はちゃんと見ています。大人の背中を。

 

さとのたね

代表 岸本 梓