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保育の質ってなに?

あけましておめでとうございます。本年もぼちぼちでよろしくお願いいたします。

前回のブログが8月だったことにびっくり。

相変わらず書く気力が起こらないくらい(私のキャパのなかでは)、相当に多忙な日々を過ごしています。

 

さとたねのこと一本に見えつつも、家に帰ればお母ちゃん業もあるわけで。

家族があって、子供がいれば、大きくなったとはいえあれこれ事件は起こります。

子育てっていくつになっても、母ちゃんは心揺さぶられますよね。長期休みくらい、週末くらい休みたいと思ったってそうはいかない。

どこがゴールかわからないから不安になるお母さんいっぱいいるんじゃないかしら。

いくつになってもゴールはないですよ~

だから子育てはずっと自分育てなんですよ~

それを覚悟していくには時間と経験が必要だから、途中ちゃんと息つぎできる程度には、人の手をうまく借りることも大事なんですよ~

大丈夫、なんとかしたいと思ってるんだったらもう十分いいお母ちゃんです。

 

子育てに限らず、ですね。

隣に人がいれば、共に育ち続けるということ。

 

保育の問題があちこちで取りざたされるたびに思います。

 

保育の質ってなに?保育ってなに?質ってなに?って。

 

大人が勝手にどんな保育がいいとか、どう育てるべきだとか、

子供は待ってもないのに待機児童とか、大人に都合のいい安心安全の仕組みとか、

保育は専門家にとか、保育サービスとか、資格ありきとか、、、

 

そこに「こども」を見る視点(感性)がほんとにありますか。

結果、「こどもの声」が切り捨てられて、ないがしろにされていませんか。

 

『ママがいい!』を書いた松居さんも、過去、園勤務経験のある元保育士さんも何をいまさらと言います。

保育虐待の問題はもう何十年も前から起きているって。

そして今、飽和状態になってやっと明るみに出るようになっている。

それは同時に日本全体の虐待数を見ても、不登校児童数を見ても、子供の自殺者数を見ても同じことが言えるのではないでしょうか。

 

仕組みを作った人も、仕組みに乗っかる人も、仕組みに乗らざるを得なかった人も、

悲しいことに、子供にひずみがいっていることに気づかない。

もしくは見て見ぬふりをしているか。

 

監視や決まりは強化され、現場は疲弊し、また子供が苦しくなる。

持続可能な社会を、誰一人置き去りにしない社会をと声高に掲げる一方で、

誰も子供をみていない、感じていない。

 

子供はもって生まれたいのちを輝かせ、自分を全うしたいだけなのに。

 

私は、前にも書きましたが幼児期の記憶がはっきりとあるほうです。

だから大人になった自分と子供の時の自分は切り離して考えることができません。

ぜんぶ繋がっているからです。

それは、いま目の前にいる子供たち、子供時代をめいっぱい生きてる子供たちとそのままリンクします。

 

ありがたいことに、私の子供時代はほんわか幸せだったという記憶がほとんどです。

でもそれは、周りの大人が私を私のままで生かしてくれたからだと思っています。

 

だけど特別何かをしてくれたわけではありません。

何かをやってくれたとか、ご褒美をくれたとか、どこかへたくさん連れてってくれたとか、いっぱい遊んでくれたとか、ではなく、

ただ、あなたはそうなんだね、という受容と共感とでもって関わっていた。

時にノーということも含めて。

 

そして、子供を受容しながら、大人もまた自分を生きていた。

それが私にはちょうどよかったし、これが私の「生まれてきてよかった」の根幹にある原体験です。

 

私は働きたい母のもとで生まれ、生後間もないころからお隣さんに預かってもらいながら育ったけれど、それは他者であっても、家の温かい空気感と繋がりを感じ続け、お隣さんが母にまたその心持ちを繋いでくれたからだと思っています。

 

少し大きくなって学童期も「いわゆる学校教育」の中に、あちこち隙間と余白があり、「自分でやってごらん、考えてごらん」という大人たちがいました。

 

地域の大人たちの中にも、「子供会はやりたいこと、行きたい場所、自分たちで考えて決めていい」とお金と安全、必要な時の相談役の部分だけサポートし続ける大人たちがいました。

 

今よりはるかに、子供が大人に信頼され、自治を任されていたのです。

「受容」と「共感」の先には、「自律」と「尊重」の場があったわけです。

 

もちろんそんなきれいな話ばかりじゃなくて、押しつけがましい抑圧的な大人にも出会うことはあったし、苦い思いもしてきたけれど(こちらも細かく記憶があるので)、自分の自我が揺るがないくらいに育つには、周りに、まともなおとながいた、ということです。

そうやって子供は他者の間で、大人の背中を見ながら、自分の安全基地を自分の中に作っていきます。

 

自分を信頼すること、他者を信頼すること。

人が人として育っていく過程の必須条件が、大人たちの中に存在したからこそです。

 

じゃあ、保育ってなんなのってことです。

質ってなんなのってことです。

 

保育所保育指針の冒頭に書かれているように、「子どもの最善の利益」を考えるならば、見えてきませんか?

 

保育は、子供に関わるすべての人が行う子育てであり、子供(人)がより良く命を全うできる社会じゃないでしょうか。

 

質は、大人が良かれと思って子供に与えようとするものでもなく、都合のいいように作ろうとするものでもなく、自他の幸せを共に感じ、考える感性、ではないでしょうか。

 

これだけ不確かな時代において、保育を、質を、わかりやすい物差しで捉えたくなる気持ちもわかります。

でも、太古の昔から、今の時代においてもなお、お産は未知なる所業で、子供は自然と同様、神域です。

そういう人たちを目の前にして、私たち大人が何度も何度も自分という存在を顧みる機会を与えられることはあっても、子供が望んでもないのに足らないものを探しては、べたべたと付け足していくようなことをしていていいのでしょうか。

 

子供時代の私が叫びます。

「そういうのは、要らない」って。

 

ただ信頼して横にいてくれれば十分なんです。

困った時に一緒に考えてくれれば十分なんです。

 

「保育の質」を、方法や手段で捉えて勘違いしないでほしい。

 

子供が見て感じているのは、目の前の大人の人間性であり、大人の繋がり方です。

 

あるお母さんがこんな風に伝えてくれました。

「さとのたねって、どの保育者になってもいいって思えるよね」

「そんな保育の現場はない」って。

スタッフにとって、これ以上ない誉め言葉です。

 

さとのたねのスタッフは、タフさ、共に在ろうとする人間性、子供をみる感性が何よりも優先なので、自分もここで子育てしてきたお母さんで、かつ、資格をもたないところからスタートするのがほとんどです。

何によって子供が自分の命を自ら輝かせていけるかを考えれば、優先順位ははっきりしています。

そして、その人間性を感じて、どの保育者でも大丈夫と思えるお母さんがいるんです。

 

でもこれもまた裏を返せば、「自己信頼」と「他者信頼」を、私たちスタッフと共に育み合い続けるお母さんたちがいるからです。

 

「お任せ」でない大人たちの人間性が、子供たちに何年もかけて伝わり、

「生まれてきてよかった」の根っこを子供が安心して育てていけるのです。

 

はい、今回も長くなりました。

色々あってこみ上げるものがあり、半分泣きながら書きました。

今年もさとのたねを、子供たちを、お母さんたちを、スタッフたちをどうぞよろしくお願いいたします。

 

さとのたね

代表 岸本 梓