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ありのままの先を対話で紡ぐ~安心安全の落とし穴~

気づけばもう9月。夏季保育も終わってしまいました。今年の夏はとにかく暑い!暑いと頭がよく働かない!ということを言い訳に、後回しにしてきたブログです(笑)

もっと気軽に書けないものかなと思いつつ、インプットしたり感じたりして、練ったものを文字に起こすまでが面倒なんですよね~

私は練ってる時間のほうがアウトプットしたり、話したい時間より圧倒的に長いので、そうこうしてるとあっという間に時間が経っていきます。

でも、最近はそんなものなのかなとも思います。情報過多な世の中だから、すごく急かされてるような気がするのだけど、本来は考えるのも、アウトプットするのも人によっては時間がかかるもの。ぱぱっと言葉になる人もいれば、言葉がしっくりこずに考え続けてる人もいるはずで。

頭に描いていることをAIが文章にしてくれたらと思わずにはいられないほどに言葉になるまでに時間を要する私です。

 

さて、先日の夏季保育は年少児、年中児、年長児の3学年で3日間の保育。子供たちの表情から少し緊張?様子を伺う感じもありつつ、だんだんほどけてくると自分でやりたいことを見つけて遊びだします。誰かと相談したり、考えたりしながら、一緒になって遊ぶのがとにかく楽しい年頃の3,4,5歳児たち。

一つ印象的だったのが、2日目のこと。

年長児と泥で遊んでいた保育スタッフのっちが、男の子たちに体中泥を塗りつけられていたのを見ていたNが、私のそばまでやってきて、

「あづさちゃんきて!たいへんだから!」と私を呼びに来ました。

彼女の表情は固く、ほんとに大変なの!っていう気持ちが真っ先にあったので、

「なにか困ったことあったのかな?」って聞いてみると、

「のっちがね、どろんこになっちゃってるの。いっぱい腕にぬられて!」

というのです。

 

「あら、そう」

と私が返すと、

「だってね、のっち、ほんとはいやかもしれないでしょ!だからやめてって言ったほうがいいかもしれない!」って本気で心配してるのね。

 

もし、自分だったら嫌だなって想像したのかしら。

ほんとに嫌そうに見えたのかしら。

 

そばで見ていて、もしかしてのっちが困ってるかもしれないって考え伝えてきたNの気持ちを想像したらああそんなふうに自分以外の人のことを捉えられるようになったんだね、と感じました。

 

でね、私は、

「そっかあ、のっちのことが心配なんだね。でもさ、のっちが嫌がってるかはのっちに聞いてみないとわからないから聞いてみるといいよ。もしかしたら楽しい気持ちでやってるかもしれないし、すっごく嫌がってるかもしれないし本人に聞いてみないとわからいもんね。」

というと、

「わかった!」といって、かけていきました。

そしたら、のっちが泥んこまみれで笑いながらNに、泥つけちゃうぞ~という素振りをして追いかけてきたものだから、Nは「キャー」と言ってこれまた大笑いしながらこちらに逃げてきたわけ。

「きけなかったよ~(笑)」と言いながら、でも、困ってるわけじゃないんだってことはそのやり取りの中で自然にNには伝わっていたのね。

 

言葉と、言葉に頼らないやり取りで彼女が対話していた瞬間でした。

遊びの中にはこうした思い違いや一緒の気持ちのつもりがそうでなかったみたいなことがしょっちゅう起こります。

自分はこう感じてるっていうとこから始まって、でも、相手と自分は考えてることが違ったっていうことに気づいて、また関わり直す、みたいなことです。

 

子ども達の世界を見ていると、相手がどうかってことから始まることはまずありません。

まず自分がどう感じるか、どう考えるか。

そこを他者に受け止めてもらうことで、同時に自分で自分を認めることにつながっていくのでしょう。

 

でも、この順番が逆で、

相手のことを先に考えなさいみたいなことがまずあって、というふうだったら、どうなんでしょう。

自分の気持ちを介さずにいきなり他者のことを考えるって子どもにはできないことだから、おそらく「優しくしなければならない」というようにお決まりをなぞって、自分の気持ちは置いといて、思考停止の状態で生きていくしかなくなります。

 

でも、それって人の育ちとして自然じゃないからどこかで苦しくなっていって、どこかで違うんじゃないかと思いながらも、変えていくことを恐れては動けなくなる、か、真逆に振ろうとする。

 

ありのままでいいんだって極端に真逆に振って思考停止でそう受け取るのか、

自分で揉んで、考えて、自分で自分のありのままを認めているのかは、

そのあとの行動が全く違ってきます。

前者は、ありのままという自分に固執したままで、

後者は、自分と他者という関係性の中でその先を紡ごうとします。

 

子ども達は、いつだって後者です。

ありのままでいいと開き直って、人の善意にあぐらをかき続けたり、これが私のありのままだからあなたのことは知りません、みたいなことってないのです。

 

自分で自分を受容する、自分で自分の中に大丈夫っていう居場所を作る、

そういう過程をすっとばして、ありのままを認めるということはあり得ないような気がします。

 

個が個で育っていくことってまずなくて、人は誰かと関わり、影響を受けながら、相互に育っていくのだから、自分を生きてれば、必ず他者との違いに出会い、じゃどうする?みたいなことを考えていくことの繰り返しなんです。

それは自分で感じ、考えるという育ちをすっ飛ばしてきた大人ほど、時にものすごく苦しかったりします。

どこに行っても、いつも、安心で、安全で、心地よく自分のことを受け入れてもらえるわけではないもの。

 

だから、私は、安心・安全っていう耳障りのいい言葉を多用する人ほど落とし穴があるって思ってます。安心・安全は、本来違いを受け止め合えるある程度の環境の中で、自分の中に作っていくものだからです。誰かがいつもいつも用意してくれるものではない。

 

少なくとも子供たちはもっとシビアな世界で生きています。

自分を生きると同じくらい、自分の思い通りにならないことに日々出会い続けています。

でも、ぜったいに放棄しないんですよ。

時に自分が受け入れてもらえなくても、思ったように進まなくても「私は私を見失わないよ」っていう自尊心を土台にして対話をしていることがほとんどです。

 

ということは、やっぱり、まずは自分で感じる、考えるってことが認められる環境があってこそ。でも、そこをすっとばしてきちゃった大人は少し気をつけなきゃいけない。

自分との対話を通し、ありのままを認めた先は、必ず他者との対話が待っています。

 

最近は、ありのまま、主体性、自分を生きる、の勘違いがそこかしこで起こっているのを感じるので、ありのままの先をどう対話で紡ぐか、が課題だなあと思っているところです。

 

自分のありのままを(勘違いなく)受容することも、

他者を尊重することも、

違いをもって対話をすることも、

どこかに傾きすぎては見失う。父性と母性のバランスと似ていて、「混在」なんでしょうね。

負の中からおもしろさを見出せるユーモアをもっていきたいものです。

 

さとのたね

代表 岸本 梓