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憂うよりも工夫を

春なるとつくしが食べたくなります。身体の中に感覚的な幼き日の記憶がぎゅっと残っていて。

団地を少し抜けると田んぼが広がる風景、毎年春になると母とつくし摘みに行っていました。

団地の階段を降りる時に漂う不思議な匂いまでよみがえってきます。

あれはどこからどう匂ってたんだろう。

幼少期の記憶というのは「感性丸ごと記憶」というらしく、一つの情景に紐づいて、味覚、感触特に香りまでとにかく感覚丸ごとで記憶しているらしいです。あの時嗅いだ匂い、味まで思い出せてしまうような記憶です。

 

つくしと言えばうちははかまもあたまの部分も取ったあとに、卵とじにして煮たもの。

つくしの卵とじ、よもぎ団子、フキのしょうゆ煮、野草の天ぷら、セリご飯…

幸せな春の味覚たち。

つくしの卵とじ以外は、子供が生まれて子育てするようになってから出会ったものばかり。

母になっていなかったらこんなに自然に目を向けることもなかったかもしれないとふと思います。

我が子が生まれて、再び森に、自然に還り、恵みを味わう。

私の中では子育てって忘れかけてた自分の中の感覚をいくつも呼び起こす作業。ありがたいことです。

子供に食べさせたいという気持ちがないわけじゃないけれど、それよりも春がくるともう心がううずうずとして作っています。

 

そうそう、今年のつくしのはかま取りは、すっかり大きくなった長男、次男が手伝ってくれました。山盛りのつくしがあっという間にきれいに剥けました。小さな時は一緒に摘みに行っていた二人。つくしを真ん中にして色んな話ができるのも嬉しいことです。

 

年長児たちの卒業式も、各クラスの最終日も終わり、気づけば新たな1年のスタート地点にいます。

去年は秋のフォーラムからは怒涛でした。認証制度のことも、フォーラムのことも相当なボリュームを占めていたけれど、振り返ってみて、やっぱりおもしろいなと思うのは、目の前の子供の姿であったり、お母さんたち一人一人の持ち味と、成長だったりします。

お母さんたちの葛藤の中で自分を信じて進んできた人の涙はなにものにも代えがたいなと思います。

自分の足で歩んでる?あなたはどうしたい?

そう問われても答えられない時間も共に過ごしながら、

人と繋がりながら自分を生きるってなんて難しい!と投げだしそうになりながら、

それでも、まずは自分を信じてみる、今を受け入れてみることを決めるまでの過程をいくつも見せてもらっていたように思います。

自然と人と対話しながら、自分を生きることを、子供たちが時々背中で見せてくれたものね。

 

幼児期は忙しいは確かだし、預けてしまえば楽だし、見たくないものみなくていいし、

でもね、お母さんたちって子供がいるから踏ん張れるのは確かな気がします。

命でダイレクトに繋がっている本能的感覚があるから。

私は、その踏ん張りは手放さないほうがいいと思ってて。

物理的な楽はしても損はないけど、自分の中の課題は楽なほうをとりすぎないほうがいい。

必ずその先の自分を支えてくれるから。

 

人が育つときって子供も大人も変わらなくて、ちょっと傷みが伴う時。

それには自分の感覚、存在をジャッジせず受け入れておく前段階の必要もあって。

子供たちは「いまここ」を感じられるから可も不可もなく受け入れられちゃうのね。

大人は先を考えすぎちゃうから一筋縄ではいかなかったりする。

だから憂うより、何度だって工夫して動いてみたらどうなんだろう?

感じるにも刺激がないことにはね。

関わる、動く、やってみる中で、感じる(どちらかというと感覚を味わう)、考える(どちらかというと次の工夫や行動を考察する)、で、また動く、につないでいけばいいんじゃないかな。

 

「考える」が「自分の頭の中の感情に縛られる」になっている人は苦しいでしょうね。

それは考えてるつもりでも、実際は気持ちに支配されているだけだから。

 

「ありのまま」も「主体性」も「考える」も「自分ごと」も、言葉って一人歩きしやすくて難しい。

「繋がりながら在る」という感覚は、体感しないとなかなか腑に落ちない。

今年度は、誤解の生まれやすい言葉、一人歩きしがちな言葉を少しづつ言語化することが課題かなと思う春の日です。

 

さとのたね

代表 岸本 梓